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【第1章:期限付きの約束】
部屋の照明は落としてある。天井の隅に仕込まれた間接照明だけが、やわらかい橙色の光を壁に滲ませていた。その光は、空間の輪郭をぼかし、時間の流れさえ曖昧にする。私はベッドの縁に腰掛けたまま、スマートフォンを手にしていた。画面は点いたまま。けれど、何かを見ているわけじゃない。ただ指先でスクロールして、意味のない情報を流しているだけ。時計は22時を少し回っていた。
明日は6日ぶりの休みである。
そう頭では分かっているのに、身体はまだ仕事のリズムから抜けきれていない。今日一日の流れ、判断、指示、数字。そういったものが、まだ思考のどこかに残っている。けれど、それも少しずつ薄れていく。この静かな部屋の中で、代わりに浮かび上がってくるのは、別の“予定”だった。明日は高校の時からの友人の優香と一緒に出かける予定である。行き先は愛知県犬山市にあるリトルワールド。民族衣装を着るとか、各国の伝統料理を食べるとか、正直そこまで強い興味があったわけじゃない。でも、誰かと時間を共有する予定があるという事実は、それだけで一つの意味を持つ。
視線を横に流す。机の上に置かれた封筒が目に入る。白い紙の封筒。中身は分かっている。無料招待券。有効期限は明日まで。「……ほんと、いつもギリギリよね」小さく呟く。自分でも驚くくらい、声が静かだった。
その瞬間、スマートフォンが短く震えた。振動が掌に伝わる。その感覚だけが、やけに鮮明だった。画面を見ると優香からのライン。一瞬、ほんのわずかに嫌な予感が走る。理由はない。ただ、こういうタイミングで来る連絡は、だいたい“いい知らせ”ではない。アプリを開く。「ごめん、明日無理になった」と短いメッセージ。けれど、それで十分だった。続けて送られてきた一文で、状況は完全に理解できる。続いて「身内に不幸があって…急で本当にごめん」と優香からのメッセージ。私は、一瞬だけ息を止めた。驚いたわけじゃない。ただ、感情が動く前に“理解”が先に来た。
こういうとき、何を返すべきかは決まっている。指が動く。「大丈夫?」と私は返信する。余計な言葉はつけない。深く踏み込む必要はない。聞くべきことと、聞かなくていいことの線引きは、もう身体に染みついている。すぐに既読がつく。「うん、大丈夫。本当にごめんね。また今度行こう」それで終わり。私はスマートフォンを膝の上に置いた。画面の光が消える。部屋の静けさが、一段と深くなる。
(……どうしよ)
自然と、そんな言葉が浮かぶ。明日の予定がなくなる。それだけのことなのに、その“空白”は思った以上に大きい。何もない一日。自由なはずなのに、逆に何をしていいのか分からなくなる。ベッドに座ったまま、しばらく動かない。頭の中で、いくつかの選択肢が浮かんでは消える。寝る、知多半島をドライブ、ららぽーとへショッピング、名探偵コナンの映画、どれも悪くない。でも、どれも決め手に欠ける。
ふと、視線が机へ戻る。封筒。無料招待券。明日まで。(使わないのは、もったいないよね)その思考は、合理的だった。けれど、その直後。別の“理由”が浮かぶ。夜の高速。流れる街灯。並んで走る、赤い車体。そして、言葉は少ないくせに、変なところで意地を張る男の存在。「……まぁ」小さく息を吐く。迷いがないわけじゃない。けれど、それを深く掘り下げるほどの理由もない。
スマートフォンを手に取る。ラインを開き画面をスクロールする。指が止まる。”倉田洋三”名前を見た瞬間、ほんのわずかに時間の流れが変わる。理由は説明できる。でも、それだけじゃない。(深く考えない)そう決めた瞬間、私から”迷い”という言葉が消える。チャット欄を開く。「明日ヒマ?」送信。余計な言葉はつけない。倉田くんは、それで通じる相手だから。すぐに既読がつく。「夜なら空いてる」予想通り。「昼から空けて」間髪入れず送る。「無理」即答。「夜勤明けで寝る」思わず、少しだけ笑う。(やっぱりそうよね)でも、ここで終わる気はなかった。「寝る時間ずらして」「無茶言うな」「リトルワールド行くよ」「は?」画面の向こうの表情が、はっきり想像できる。「無料招待券があるの。期限が明日までなんだ」と送信する。
ほんの少しの沈黙。考えている時間。無理だと分かっているのに、完全には切り捨てきれないあの感じ。「だから無理だって」想定内。私はそこで、一度だけ指を止める。どうするか。どこまで踏み込むか。その答えは、すぐに出る。「じゃあ私一人で行くけどいいの?」と少し意地悪なメッセージを送信してみる。それは確認じゃない。ただの事実。数秒。「……ったくしょうがねぇな。俺も行くよ」その一言で、すべてが決まる。思わず、笑みがこぼれる。「10時に現地集合で」「了解」それで終わり。
スマートフォンをベッドに置く。さっきまで感じていた“空白”は、もうない。代わりにあるのは、はっきりとした“明日の予定”。私はゆっくりと後ろへ倒れた。背中がマットレスに沈む。その柔らかさが、全身の力を抜いていく。視界に広がる天井。ぼやけたオレンジの光。目を閉じる。明日の光景が浮かぶ。昼のリトルワールド。人の多さ。歩く距離。そして、隣にいる、あの男。夜じゃない。峠でもない。それでも。「……悪くないかも」と小さく呟く。呼吸がゆっくりになる。意識が沈んでいく。静かな部屋の中で、私はそのまま眠りに落ちていった。
【第2章:犬山で会う二人の朝】
翌朝。カーテンの隙間から差し込む光はまだ柔らかく、夜の余韻をわずかに残していた。強すぎない朝日が部屋の空気をゆっくり温めていく。夜と朝の境界が曖昧なまま、静かに時間だけが前へ進んでいるような感覚。その光で私は目を覚ました。アラームよりも先に、自然に意識が浮かび上がる。久しぶりだった、こういう“起こされない朝”は。
視界はまだぼやけている。天井の輪郭が揺れ、数秒かけて焦点が合う。白いはずの天井が、わずかに橙色を帯びて見える。光がそう見せているのか、それともまだ夢の延長にいるのか、自分でも分からない。身体をわずかに動かすとシーツが擦れる音が静かに響き、重さがゆっくりと現実を伴って戻ってくる。ベッドの柔らかさが背中を包み込む。その感触が妙に名残惜しい。
昨日までの疲れは完全には抜けていない。それでも嫌な重さじゃない。むしろ、しっかりと身体を使った後に残る、鈍く穏やかな余韻に近い。ゆっくりと息を吸い、吐く。肺に入る空気が少し冷たく、それが妙に心地いい。朝の空気はいつもよりも澄んでいる気がする。静かで、余計なものが混ざっていない。
腕を頭の上に伸ばし、大きく伸びをする。筋肉が引き伸ばされ、関節が小さく鳴る。背骨が一本ずつ整えられていくような感覚。「……ん」小さく息が漏れる。その声すら部屋の静けさに溶けていく。そのまま数秒、何もせずに天井を見つめる。
(久しぶりな気がする、こういう朝)
思考が静かに動き出す。いつもなら起きた瞬間から仕事の段取りが頭を埋める。時間、優先順位、誰に何を伝えるか。自然とそれらが浮かび上がってくるはずなのに、今日は違う。頭の中にあるのは空白ではなく、あらかじめ用意された“余白”だった。“何もない朝”ではなく、“決めた予定がある朝”。それだけで、こんなにも感覚が変わる。
視線を横に向け、スマートフォンを手に取る。画面をつける。淡い光が顔を照らす。通知はないが、昨夜のやり取りはそのまま残っている。短い会話。必要最低限の言葉だけで成立したやり取り。「現地集合で」「了解」それだけで十分だった。余計な確認も、細かい段取りもない。それでも成立する関係。
小さく息を吐く。「行くって言ったし」それだけで理由は足りている。言葉にした瞬間、少しだけ実感が強まる。
ベッドから身体を起こし、足を床につけるとひんやりとした感触が現実を引き戻す。床の冷たさが、意識をはっきりとさせる。ゆっくり立ち上がり、少しだけふらつく。まだ身体は完全に起きていない。重心がわずかにずれる感覚。それでも数歩歩けば自然と整っていく。
ウォーターサーバーでお湯を注ぎ白湯を飲む。洗面所へ向かい、鏡の中の自分を見る。寝起きの顔。髪は少し乱れていて、表情はまだぼんやりしている。いつもより少しだけ力が抜けた顔。どこか無防備で、それが逆に新鮮だった。蛇口をひねる。水の流れる音が静かに広がる。手ですくい、顔に当てる。冷たい水が皮膚を引き締め、思考をクリアにする。二度、三度と繰り返すうちに、視界がはっきりしてくる。
歯を磨き、トレーニングウェアに身を通す。キャップを被り家を出る。私はこれから日課のランニングをする。県道60号線を西へ向かい、今池交差点を左折する。吹上駅のある交差点を左折。そして、中華料理店のある交差点を左折して覚王山の自宅に戻ってくるルートだ。仕事がある日も休みの日も雨の日も基本的には行っている。
走り込みを終えて自宅に戻りシャワーを浴びる。ちょっぴり寒いけど最後に冷水で締めるのが私流。
(よし)
短く整える。その一言で切り替わる。支度を始める。クローゼットを開け、服を選ぶ。ハンガーに掛けられた服を一枚ずつ目で追う。動きやすさ、気温、歩く距離。頭の中で条件を並べる。そして自然と、もう一つの条件が加わる。“誰と会うか”。そこまで考えて、少しだけ自分で可笑しくなる。
「……別に」
誰に見せるわけでもない。ただの外出。それでもほんの少しだけ意識してしまう。理由ははっきりしない。ただ、完全に無関係とも言い切れない。その曖昧さが少しだけ気になる。
最終的に選んだのは、いつもより軽めの服装だった。動きやすく、それでいてラフすぎない。鏡の前で軽く確認する。問題ない、と自分に言い聞かせるように小さく頷く。
メイク、ヘアセットを済まし、軽く朝食を食べる。昨日、仕事帰りに寄ったイオンモールNagoya Noritake Garden1階にあるザシティベーカリーで購入したクロワッサン。少々値が張るが芳醇なバターの香りが鼻を抜ける。一通り家事を済ませる。
玄関に立ち、スニーカーを履き、鍵を手に取る。ドアノブに触れた瞬間、呼吸がわずかに変わる。内側の空気と外側の空気の境界に立っている感覚。ドアを開けると朝の空気が流れ込んでくる。まだ熱を持っていない澄んだ空気。ほんのわずかに湿り気を含んだ匂い。一歩外へ出る。足音が静かな住宅街に小さく響く。遠くで車の走る音がかすかに聞こえる。
ガレージへ向かう。電動シャッターが上がると、そこには青いフェアレディZがある。朝の光を受けて、そのボディは夜とは違う表情を見せていた。深い青がどこか透明感を帯びている。光の当たり方で色が変わる。その変化を一瞬だけ眺める。
ドアに手をかけ、開ける。シートに身体を沈める。この瞬間が好きだった。外と内が切り替わる瞬間。外界の音が遠ざかり、自分だけの空間になる。ドアを閉めると音が遮断される。エンジンをかける。低く滑らかな音が立ち上がり、静かな住宅街に溶けていく。振動がシート越しに伝わる。
ハンドルに手を置き、ゆっくりアクセルを踏む。車体が前へ動き出す。朝の光の中を滑るように進む。交通量はまだ少なく、信号も流れる。その中で一定のリズムを保ちながら走る。急ぐ必要はないが、止まる理由もない。その曖昧な速度感が心地いい。
信号で止まる。エンジンの振動が身体に伝わる。そのまま前を見つめる中で、昨夜のやり取りを思い出す。「無理」「無茶言うな」で少しだけ笑う。(倉田くんには、ちょっと無茶を言っちゃったかな・・・)確かにそうかもしれない。相手は夜勤明け。それでも「……来るって言ったし」と呟き、それだけで十分だった。
信号が青に変わる。アクセルを踏む。車体が滑るように前へ出る。その動きに迷いはなく名古屋高速2号東山線へと合流する。
一方その頃。俺はすでに名古屋市中川区富永の自宅アパートの駐車場に停まっているクルマの中にいた。赤いシビックタイプR。エンジンはかかっているが、その中の人間は明らかに通常の状態ではなかった。「……ねみーな」の低く乾いた声。夜勤明けの身体は正直だった。本来なら今頃ベッドに倒れ込んでいる時間。それなのにハンドルを握っている。視界は開けているが、身体の奥に重さが残っている。まぶたがわずかに重い。瞬きの回数が増える。
「……ったく。ほんと無茶させやがるんだからあの人は」と車内でぼやく。だがその声に本気の不満はない。むしろわずかに口元が緩んでいる。(まぁ、悪くねぇけどな)思考は自然とそう結論を出す。理由はない。ただ行くと決めただけ。その単純さが逆にしっくりくる。
アクセルを踏む。エンジンが応え、赤いシビックが朝の国道1号線へ滑り出す。交通量は増え始めているがまだ詰まってはいない。その隙間を正確に抜けていく。操作に無駄はない。身体は疲れていても感覚は鈍っていない。むしろ余計な力が抜けている分、自然に動く。ステアリング操作も、ブレーキも、アクセルもすべてが滑らかにつながる。
今日も俺は節約のため下道レーシングだ。国道41号線へ合流する。アクセルを踏み込む。回転が上がり、エンジン音が意識を引き上げる。眠気の奥にある感覚が呼び起こされる。
(……来るって言ったしな)
昨夜のやり取りがよぎる。強引で無茶だった。それでも断らなかった。「……チッ」小さく舌打ちする。だがそれも形だけ。本当は分かっている。こういう無茶は嫌いじゃない。むしろ少し楽しんでいる。普段なら選ばない行動、いかない場所。だからこそ、少しだけ面白い。
アクセルをさらに踏む。加速。赤いシビックが朝の道路を切り裂いていく。景色が流れ、音が変わる。その中で意識は徐々に冴えていく。
その先にあるのは、ただの目的地じゃない。“約束”。そしてあの“続き”。まだ終わっていない、あの時間の延長だった。
【第3章:世界旅行】
普段、俺は約束の1時間前には着くようにしていたが、今日ばかりは約束の10分前だった。ほぼ同時に蒼井さんも到着した。青いZと、赤いシビック。わずかな時間差もない、まるで示し合わせたかのようなタイミングだった。互いにブレーキランプが点灯した瞬間、視界の端でそれを認識し合う。意図したわけじゃない。ただ結果としてそうなっただけなのに、その一致が妙にしっくりくる。
エンジンの回転がゆっくりと落ちていき、やがて完全に止まる。先ほどまで確かにそこにあった機械の鼓動が消え、辺りに静寂が戻る。その静けさは不思議と重くなく、むしろ二人の間に流れる空気を際立たせるようなものだった。遠くで子どもの声が聞こえる。風が木々を揺らす音が、わずかに混ざる。
ドアを開けた瞬間、外の空気が流れ込む。朝の匂いがする。少し湿っていて、それでいてまだ一日の熱を持たない、透明に近い空気だった。肺に入る感覚がはっきりと分かる。
「眠そうだね」と先に口を開いたのは蒼井さんだった。何気ない一言。だがその視線は、俺の状態を正確に捉えている。目の下のわずかな影、瞬きの間隔、立ち方の微妙な重心のズレ。その全部を見ている。
「当たり前だろ」俺は朝食のコッペパンを口に詰め込みながらドアにもたれかかるようにして目を細める。瞼が重いのは隠しようがない。夜勤明けの身体は正直で、今この瞬間にも意識を手放しそうなほど疲労が溜まっている。それでもここに来ている。その事実だけで、言葉以上のものが伝わっていた。
「帰っていいよ?」と蒼井さんはわざとらしく言う。俺を試すような口調。軽く首を傾ける仕草すら計算されているように見える。
「来させといてそれ言うかよおい」俺は即答だった。少しだけ呆れたような声。だがその裏にあるのは拒否ではない。むしろ、来た理由を自分でも分かっているからこその反応だった。帰るという選択肢は最初からない。
蒼井さんは小さく笑う。その笑みは長くは続かない。ただ一瞬、確かに柔らかい空気がそこに生まれる。視線を逸らし、軽く歩き出す。その動きに合わせて、俺も自然と足を動かす。
蒼井さんは俺と並んで歩き出す。特別な合図もない。ただ自然に同じ方向へ足が動く。歩幅が合うまでに時間はかからない。園内へと続く道を進むにつれて、周囲の景色がゆっくりと変わっていく。蒼井さんからチケットを受け取り、入口を抜けた瞬間、空気が少しだけ変わる。現実の延長でありながら、どこか別の世界に入り込んだような感覚。音の反響、空間の広がり、視界の抜け方。その全部が微妙に違う。
広い敷地。視界の奥まで続く空間。その中に、世界各国の建物が点在している。一つひとつが独立していながら、全体として一つの流れを作っている。歩くごとに国が変わるらしく最短2時間で世界一周できるらしい。その不思議さが、逆に自然に感じられる。
最初に目に入ったのは、沖縄の古民家だった。赤瓦の屋根と石垣の塀。低く構えた建物は、どこか時間の流れが緩やかな場所を思わせる。風が通り抜けるような構造。影の落ち方までもが柔らかい。日差しが強くなりきらないこの時間帯だからこそ、その陰影がはっきりと浮かび上がる。
「日本から始まるんだな」俺がぽつりと言う。その声には少しだけ意外そうな響きが混ざっている。異国を期待していた分、最初に“身近なもの”が来る構成に少し驚いている。
「おばあちゃんちの匂いがする」蒼井さんも同じ景色を見ながら答える。特別な感想は言わない。ただ、その場の空気を共有しているだけで十分だった。その一言で、空間の印象が具体的な記憶に変わる。
ゆっくりと歩く。急ぐ理由はない。時間に追われることもない。足取りは自然と緩やかになる。足音が土の上で柔らかく響く。
次に現れたのは台湾の建物。色使いが一気に変わる。鮮やかで、どこか雑多で、しかしそれが一つの文化としてまとまっている。赤いレンガの装飾。奥に進むと民族衣装体験というものがある。俺はその案内を見た瞬間、朝来た時に意地悪された仕返しをしようと行動に出た。
「民族衣装体験だって。蒼井さん似合いそうだな」と棒読みで発言し、仕返しを決行した。
「チャイナドレス!?はぁっ何言ってんの?アっタマおかしいからね」と珍しく気を取り乱した蒼井さん。俺は勢いのまま、係の方に500円を渡し蒼井さんを押し出した。蒼井さんはそのままカーテンの奥へと吸い込まれていった。
5分後、チャイナドレスを着た蒼井さんがでてきた。相当に似合ってて冷やかそうとした俺は不意打ちを喰らった。蒼井さんを外へ連れ出し、照れる蒼井さんの写真をとってあげた。フェアレディZで峠や高速道路を疾走するような人には全く見えなかった。
衣装を返却し、移動する。蒼井さんにどんな仕返しを受けるのか怖くなって歩いていると、その先には”台湾小路”という飲食スペースがある。提灯のような吊るした電球に屋台のような雰囲気が漂い、空気の密度が少しだけ濃くなる。人の気配も増え、音の種類も増える。
台湾の先はアメリカ、そして南米ペール。真っ白で美しい建物が蒼井さんと妙にマッチする。
さらに進む。インドネシア越え景色がまた変わる。現れたのはヨーロッパの街並みだ。木の窓枠が印象的な家。ドラゴンクエストに登場しそうな教会。石畳が足裏に硬さを伝えてくる。さっきまでとはまるで違う“整った空気”。視界の情報量は多いのに、なぜか落ち着いている。その中に、香ばしい匂いが混ざる。焼きソーセージ。油が弾ける音がわずかに聞こえる。煙がゆらりと立ち上る。
「腹減ってきたな」と俺が言う。かなり正直な声だった。理屈ではなく、完全に感覚のまま。
「さっき朝ごはん食べたてたんでしょ」と蒼井さんが即座に返す。間がない。そのテンポが心地いい。でも仕返しというわけではない。
「それとこれとは別だろ」と俺は迷いがない返事をする。その理屈に一切の揺らぎはない。食べたいものは食べる。それだけだ。
蒼井さんは小さく息を吐くように笑う。結局、オリジナルソーセージの盛り合わせを買うことになる。二人で自然に分ける。どちらが多いかなんて気にしない。
「うまいな」一口かじってすぐに出る言葉。シンプルで、それ以上の説明はない。
「そりゃそうでしょ」と蒼井さんも同じように口にする。そのやり取りに特別な意味はない。だが、同じものを同じタイミングで共有するという行為そのものに意味があった。味よりも、その状況が印象に残る。
「あっつ」蒼井さんが噛んだソーセージの肉汁が俺に飛んできた。「ごめんっ。わざとじゃないんだから」と蒼井さんが弁明する。「さっきの仕返しかと思った」と俺は答える。すると蒼井さんは「仕返し?なんのこと?」と聞いてきたので、「何でもない」と返した。
イタリアのエリアでは、白い建物の中にレストランがあり、生ハムのピザとジェラートを注文する。ショーケースの中に並ぶ色とりどりのジェラートを前に、ほんの少しだけ迷う時間がある。甘い香りがふわりと広がる。視覚よりも先に嗅覚が反応する。
「似合わなねぇよな」俺ががぼそっと言う。視線は逸らしたまま。「何が?」蒼井さんはすぐさま聞き返す。その声には軽い警戒が混ざる。「ジェラートだよ」短く言い切る。理由は言わない。「確かに」返しも短い。だが、その後にほんの少しだけ間があって、蒼井さんは小さく笑う。その表情は否定しきれていない。口元に残る甘さと一緒に、その笑みも柔らかく残る。
ピザとジェラートを食べ終えた俺たちは、園内をさらに進む。アフリカの家屋。、ネパール建築にインドの家屋。それぞれが異なる空気を持っている。色、形、匂い、音。すべてが少しずつ違う。肌に触れる風の温度さえ変わったように感じる。
そしてトルコエリア。蒼井さんは世界史に詳しいらしく、「元々はビザンティウムという名前でコンスタンティノープルに名前を変え、ローマ帝国の首都になった」とか、「1453年にオスマン帝国に征服されてイスタンブルという名前になった」など世界史を全く知らない俺に知識を披露してくる。
二人でケバブを食べる。
それからというもの歩く、食べる、話す、そして沈黙する。その繰り返し。どれも意識しているわけじゃないのに、俺たちの自然とリズムが合っていく。
「まるで世界旅行してるみたいだな」俺が言う。その声には、ほんの少しだけ素直な感想が混ざっている。飾らない言葉。
「だね」蒼井さんも同じように答える。無理に話を広げることはしない。その一言で十分だった。
歩きながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。長く続く会話ではない。だが、途切れることにも意味がある。沈黙が苦にならない関係。それがこの二人の距離だった。無理に埋める必要がない空白。足音が重なる。影が並ぶ。視線が同じ方向を向く。その一つひとつが、言葉以上に関係を形作っていく。気づけば、隣にいることが当たり前のようになっている。
韓国の家が見えてきた。「こういうの、韓国にもあった?」と俺が横目で聞く。何気ない問いだが、そこには少しだけ興味が含まれている。単なる比較ではなく、彼女の過去を少しだけ覗くような問い。「んー、近代的な高層ビルしかなっかよ」蒼井さんはすぐには答えず、ほんの少しだけ考えてから口にする。その“少し”に、彼女が過ごしてきた時間が含まれている。思い出すような間。「匂いとか、音とか…も全く違うかな」付け足すように言う。言葉にしきれない部分を、無理にまとめない。そのままの形で残す。その曖昧さが逆にリアルだった。
気づけば、光が変わっていた。高かった太陽が少しずつ傾き、影が長く伸びている。色温度も変わり、景色全体が柔らかく染まり始めている。昼の鮮やかさから、夕方の落ち着いた色へ。
「結局、閉園までいたな」と俺が軽く肩を回しながら言う。関節が小さく鳴る。身体に残る疲労が、今日の時間の長さを物語っている。
「うんそうだね。でも楽しかった。」蒼井さんも同じように息を吐く。長時間歩いたことによる疲れ。だがそれは不快なものではなく、むしろ満たされた後に残る心地いい重さだった。足の裏に残る感覚すら、どこか心地いい。
言葉はそこで途切れる。だが、それでいい。何かを言わなくても、この時間がどういうものだったかは、お互いに分かっている。説明する必要も、確認する必要もない。
そしてその奥には、まだ終わっていない“続き”が、静かに残っていた。
【第4章:ディナーとショッピング】
リトルワールドを後にした俺たちは、そのまま流れで駐車場へ戻った。さっきまで歩いていた園内の空気が、クルマのドアを閉めた瞬間に一気に遠ざかる。足裏に残っていた石畳の硬さや、異国の匂いが、ドア一枚で切り替わるのが分かる。エンジンをかけると、低く安定した振動が身体に伝わってきて、意識がゆっくりと“日常”へ引き戻されていく。その振動は単なる機械のものなのに、不思議と安心感があった。
秋の外はもう夕方を越えて、夜へと向かう途中だった。空の色はオレンジと群青が混ざった曖昧な境目で、地平線の近くにはまだ光が残っているのに、頭上はすでに夜の気配を帯びている。街灯がぽつぽつと灯り始めていて、その一つひとつが現実の輪郭をはっきりさせていく。フロントガラス越しに見える景色が、ゆっくりと“非日常”から“いつもの道”へと変わっていく。
俺たちはイオンモール扶桑へと向かい、サイゼリヤで夕食を食べることになった。特別に相談したわけでもない。自然とそういう流れになっただけ。でも、その“なんとなく”がちょうどよかった。
夕方から夜へ切り替わる時間帯の道路は、どこか緩んだ空気を持っている。仕事帰りのクルマ、買い物帰りのクルマ、どこかへ向かうクルマ。それぞれの目的を持ちながらも、どこか急ぎきれていない流れ。その中を、無理なく滑るように進んでいく。信号のタイミングも妙に噛み合う。止まることもあるが、それすらもリズムの一部に感じる。
走りながら、さっきの園内の光景がふと頭に浮かぶ。異国の建物、石畳、グルメの匂い、笑い声。それが少しずつ薄れていって、代わりに見慣れた郊外の景色に置き換わっていく。看板、コンビニ、ファミレス、ドラッグストア。その“普通”が、逆に現実に戻ってきたことを実感させる。
イオンモール扶桑に到着した頃には、空は完全に夜へと移り変わっていた。建物の外観は全国どこでも共通するイオンモールで、初見の人間でも安心する。特にイオンモール扶桑は、そこまで大きくないので、巨大モールが苦手な方にも安心である。
駐車場に車を止め、エンジンを切る。さっきまで続いていた振動が消え、今度は別の静けさが訪れる。遠くから人の話し声やクルマのエンジン音が聞こえるが、それはどこか背景の一部のように感じる。
イオンモールに入り、サイゼまで並んで歩く。少しだけ入店待ちをして、名前を呼ばれ店に入ると、明るく均一な照明が視界を包む。騒がしすぎず、静かすぎず、ちょうどいい音量の空間。どこにでもあるようなサイゼ。でも、それが逆に安心感を与える。特別じゃないからこそ、気を張る必要がない。
席に座り、メニューを開く。リトルワールドのチケットから食べ歩きの費用まで蒼井さんに出して貰った。唯一出したのは蒼井さんのチャイナドレス代だ。万年金欠の俺だが、カッコがつかなかったので、「奢るよ」そう言おうとした瞬間だった。
「今日は私がねっ」と蒼井さんが先に言う。
「は?」と思わず顔を上げる。予想外すぎて、反応が一瞬遅れる。
「昇進祝い」その一言に、少しだけ言葉が詰まる。軽く言っているようで、その実ちゃんと見ていたということが伝わる。
「いや、いいって、いまさら・・・」反射的に出る拒否。条件反射みたいなものだ。
「いいから」少しだけ強い口調。でも押し付ける感じじゃない。あくまで“決めてる”だけ。その芯の強さが分かる。
「……いやでも」
「班長になったんでしょ?」その一言で止まる。逃げ道がなくなる。
「それくらいはさせて」静かな声。でも、そこに迷いはない。気遣いじゃなく、選択としての言葉。
「……じゃあ、頼むわ」蒼井さんの前では観念するしかなかった。妙にあっさりと受け入れてしまう自分に、少しだけ苦笑する。
注文を済ませる。パスタ、ピザ、サラダ、チキン。特別なものじゃない。でも、それで十分だ。むしろ、それがいい。料理が運ばれてくる。湯気と香りが立ち上る。その瞬間、さっきまでの会話とは別の“食事の時間”に切り替わる。
「リトルワールドのピザもウマかったけど、サイゼのピザもウマイな」と感想をいう。「確かにさっきピザ食べたばかりじゃん」と笑いながら蒼井さんも続く。
「はい、どうぞ班長様」蒼井さんが少しだけ意地悪そうに言う。
「やめろ」即答。でも、口元は緩んでる。完全には否定しきれていない。
フォークを手に取る。口に運ぶ。普通の味。でも、その“普通”がいい。余計なことを考えずに食べられる。
「だって私、平社員に戻っちゃったからさ」蒼井さんがぽつりと呟く。その言葉に、ほんの少しだけ空気が変わる。軽く聞き流せないニュアンスがある。
「……そっか」短く返す。それ以上は踏み込まない。その距離感がちょうどいい。
「なんかさ、軽いんだよね」蒼井さんが続ける。「責任ないって、こんな違うんだって思った」少しだけ笑う。その笑いは軽いけど、完全に軽いわけじゃない。どこかに本音が混ざっている。
「でも」一瞬だけ言葉が止まる。「全部なくなるわけじゃないんだよね」その意味は分かる。仕事が変わっても、背負うものがゼロになるわけじゃない。むしろ形が変わるだけ。
「まぁな」それだけ返す。それ以上の言葉は必要なかった。変に共感を言葉にするより、この一言の方が正確だった。
サイゼリヤの料理は安い。でも、ちゃんと美味い。
「こういうのがいいんだよ」自然と口に出る。
「分かる」蒼井さんも頷く。高級じゃない。特別でもない。でも、ちゃんと満たされる。その感じが、妙に心地いい。無理をしない時間。背伸びをしない空間。気を使いすぎない距離感。その全部がちょうどいいバランスで成り立っている。
その中で、ただ同じものを食べて、同じ時間を過ごす。それだけで、十分だった。
食後はイオンモール内でショッピングをした。目的があるわけじゃない。ただ歩いて、気になったものを見るだけ。それでも意外と時間は過ぎる。知多半島へ行った際もイオンモールに寄ったことを思い出した。同じような流れ。同じような距離感。違うのは、その“積み重ね”だけ。
帰り際の駐車場で「次、どうするの?」蒼井さんが何気なく言う。特に決めていたわけじゃない。ただ、この流れの中で自然に出てきた一言。
少しだけ考えて、俺は口を開いた。「キンブル行くか?」
「キンブル?」聞き慣れない響きに、蒼井さんが少しだけ眉を動かす。その反応が分かりやすくて、ちょっと面白い。
「激安の店。なんでもある」
「なんでも?」その言葉に、ほんの少しだけ興味が乗る。さっきまで観光モードだった目が、違う方向に切り替わるのが分かる。
「ああ。ほんとに“なんでも”」少し強調して言うと、「ちょっと行ってみたいかも」間を置かずに返ってきた。
正直、意外だった。蒼井さんみたいな人は、もっと整ってて、綺麗で、無駄のない、オシャレな場所の方が似合うと思ってた。でも、そういう場所じゃないところにも興味を持つ。その感覚が、少しだけ嬉しい。俺の中の固定観念が少しだけ崩れる。
駐車場へ行きエンジンを吹かし、シビックを発進させる。俺が先導し国道41号線を南下する。夜の国道は昼とは違う顔を見せる。ヘッドライトの列が流れ、テールランプが赤い線を描く。岐阜方面からキンブル小牧店へ行く場合、東名の高架下の道路を通る必要がある。その構造すら、どこか“裏道”感があって面白い。
キンブル小牧店に到着し、細い道路を挟んだ先の駐車場にクルマを停める。エンジンを切ると、外のざわめきが一気に耳に入る。夜の20時のキンブルは、まだまだ大盛況である。むしろ、夜の遅い方が物欲が刺激されるから、一層とカオスな状況になるのだろう。
「……なんか、すごいところだね。ここ」蒼井さんがぽつりと呟く。
「だろ」と軽く返すが、内心ではちょっと誇らしい。自分の知ってる“面白い場所”を共有できることが嬉しい。
店内に入ると、空気が一気に変わる。整っていない。雑然としている。客層は半分近くが外国人で、リトルワールド以上に異国感がある。だが、それがこの店の完成形だ。商品が山積みになり、通路の両脇に無造作に並び、視界に入る情報量がとにかく多い。一瞬で把握できる量を明らかに超えている。
「やっぱりなんでもあるなここ」俺が言うと、「いらなそうなものもね」と蒼井さんがすぐに返す。
俺は思わず吹き出す。「確かにな」その通りすぎて反論できない。
そこからは、完全に“探索”だった。目的を持たない行動だからこそ、純粋に楽しい。最初は様子見だった蒼井さんも、気づけばカゴを手に取っている。
「これ安すぎない?」手にした菓子を見ながら蒼井さんが言う。
「そういう店だからな」と相槌を打つ。
「逆に怖いんだけど」そう言いながらも、蒼井さんはカゴに入れる。
「あ、買うんだ」と思わず爆笑する。
その後も、次々と商品を手に取っては確認し、時には笑いながら戻し、時にはそのままカゴに放り込む。判断基準は曖昧。でも、それが楽しい。
「これ誰が使うの?」
「知らん。でも売ってる」
意味のない会話。でも、そのやり取りが妙に楽しい。情報じゃなく、時間を共有している感覚。
どこの国かわからない輸入食品、80円のトルコ産エナジードリンク。謎の調味料、用途不明の雑貨、安すぎる日用品。値段と中身が釣り合っているのか分からない。その“分からなさ”がこの店の魅力だった。
「これ絶対いらないでしょ」
「いらんな」言いながらも、なぜかカゴに入る。
「え、待って、雛人形が50円で売ってる。これ大丈夫なの?」
「前に外国人が買ってるところを見たな。」
「あぁーそういう需要ね」
他愛のない会話が続く。気づけば、二人ともそれなりの量になっていた。カゴの中身がカオスなのに、どこか統一感がある気がするのが不思議だった。
「倉田くん買いすぎじゃない?」
「安いからいいんだ」その一言で全部片付くのがキンブルだった。合理性と勢いが混ざった結論。
レジを通し、袋を持って外に出る。深くなった夜の空気が身体に触れる。少しだけ涼しくて、昼間とはまるで違う温度。空気が軽く感じる。
「なんか、楽しかったね」蒼井さんが言う。
「だろ?」素直にそう思う。こういう場所を共有できたこと自体が、ちょっと嬉しい。予想以上に噛み合っていた。
「弥富にもあるんでしょ?」
「ああ、そっちが俺の行きつけ」
「今度そっちも行ってみたい」その言葉に、ほんの少しだけ間が空く。
「おぅ任せろ!俺が案内するわ」自然とそう返していた。気負いもなく、でもどこか嬉しさが混ざる。
この後、伝説を目撃することをこの時の俺はまだ知らなかった。
【第5章:伝説に再戦】
キンブルでお買い物をした私たちは、そろそろ帰ることにした。レジ袋をそれぞれのクルマに積み込み、ほんの短い無言の時間を挟んでからエンジンをかける。その動作すら、どこか名残惜しさを含んでいた。さっきまでの雑然とした店内の空気が嘘みたいに消えて、現実がゆっくりと戻ってくる。国道155号線を左折し、小牧北ICから名古屋高速11号小牧線へと入る。丸田町ジャンクションで私たちは別れるつもりだそのはずだった。
夜の名古屋高速11号小牧線。橙色の街灯が等間隔に並び、流れていく光がフロントガラスを滑るたび、わたしの視界はわずかに明滅する。一定のリズム。規則正しいはずの光の流れ。それなのに、どうしてか落ち着かない。むしろ、その整いすぎたリズムが、逆に心の奥のざわつきを際立たせているようだった。ショッピングの余韻がまだ体に残っている。満たされた感覚。緩んだ呼吸。ステアリングを握る手にも余計な力は入っていない。肩の力も抜けているし、視線も柔らかい。それでも胸の奥に、引っかかるものがある。理由はわからない。ただ、この夜はこのまま終わらない。そんな予感だけが、じわりと沈んでいた。消えない。消そうとしても、なぜか消えない。
赤いシビックが、わたしの少し後ろ、隣の車線を走っている。倉田くんの運転は相変わらず無駄がなくて、リズムがいい。アクセルの踏み方も、ブレーキの抜き方も、すべてが自然で、どこにも引っかかりがない。加速も減速も、まるで呼吸みたいに滑らかで、その流れに乗ると、私の走りまで整えられていく気がする。私はZ君のアクセルをわずかに踏み足し、位置を合わせる。並びすぎず、離れすぎず。ほんのわずかな距離。その曖昧さが心地いい。言葉にしなくても成立する距離。こういう時間は嫌いじゃない。むしろ、好きだ。エンジン音が重なる。回転数の微妙なズレすら、なぜか気持ちいい。夜の道路に二台だけが浮かんでいるような感覚。
だけど、その静けさは、ほんの小さな違和感で壊れる。ルームミラーの奥に遠くに淡い光がひとつ。最初はただの後続車だと思った。高速道路なら当たり前の光。気にも留めないはずの存在。けれど、次の瞬間、違和感が形を持つ。光が低い。無駄に広がらない。まっすぐ、こちらだけを射抜くような直線的な光。揺れない。ぶれない。そして何より距離の詰まり方がおかしい。速い。ただ速いんじゃない。“来る”速さだ。意志を持って、こちらに向かってくるような圧力。
「……来やがったな」ガラス越しに聞こえた気がする倉田くんの声。低く、確信している響き。疑いが一切ない。わたしは小さく息を吸って、ミラーを見つめる。「……うん」短く答えた自分の声が、少しだけ硬いのがわかる。喉の奥がわずかに締まる感覚。忘れていたわけじゃない。忘れられるはずもない。2年前の夜。あの時と同じ名古屋高速11号小牧線。同じように後ろから現れて、同じように一瞬で前に出て、そしてフワッと消えた。どれだけ踏んでも届かなかった背中。追うことすら許されなかった、あの黒い影。視界の中にいるのに、距離が永遠に縮まらないという絶望。
次の瞬間、その影が現実になる。名古屋高速11号小牧線に現れると噂されている、伝説の黒いポルシェ911 930ターボ。しかもRWB仕様にパワーアップしている。音よりも先に、存在だけが通り過ぎる。風圧がZ君の車体を揺らし、空気が一瞬だけ押しのけられる。ほんの一瞬、世界の密度が変わる。わたしの視界を横切り、そのまま前へ。
”ブラックバード”。
名前を口にしなくても、身体がそれを理解する。皮膚が覚えている。神経が覚えている。速い。でも、それだけじゃない。踏み始めの鋭さ。アクセルに触れた瞬間の反応速度。速度が乗ってからの伸び。伸びきったあとも、なお余裕を残している加速感。車体の安定感。挙動の正確さ。全部が噛み合っている。まるで“速さそのもの”が形になったみたいな走り。
胸の奥がざわつく。鼓動が少しだけ速くなる。怖いわけじゃない。悔しい。あのとき、何もできなかった自分。追うことすら許されなかった自分。その記憶が、今も確かに残っている。でも今回は違う。
「……行くっ」自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。震えていない。むしろ、静かに燃えている。並列して走るシビックに目をやると倉田くんが手を上げて合図していた。それだけで十分だった。
アクセルペダルを一気にブラジルまで踏み込む。Z君が応える。低く唸るエンジン音。3連メーターのブースト計が1.4を指す。背中を押しつけられる加速。シートが身体を受け止め、視界の流れが一気に速くなる。さっきまでの穏やかな巡航が、一瞬で過去になる。前を見る。まだ見える。あの黒い影が、まだそこにある。
「まだ見えてる」「今回は絶対に逃がさないから」と口にした瞬間、自分の中で何かが切り替わる。スイッチが入る。追う。ただ追うだけじゃない。届くところまで行く。
赤いシビックも同じく加速する。
小牧線の緩やかなカーブに差し掛かる。私はブレーキを遅らせる。限界まで我慢して、一気に踏む。フロントに荷重が乗る。タイヤが路面に噛みつく。わずかに外へ逃げようとする動きを、ステアリングで抑え込む。怖い。でも、その怖さが逆に集中を研ぎ澄ます。余計な思考が消える。目の前のラインだけが、はっきり見える。立ち上がり。アクセル全開。Z君が前へ跳ねるように加速する。
倉田くんのシビックが、横に並ぶ。その存在だけで分かる。今は一人じゃない。
分岐を直進するブラックバードは迷わず名古屋高速1号楠線へ。「環状に入る気ね」
料金所を通過する。前回は呆気に取られていたが、今回はしっかりとブラックバードを捉えている。
交通量が増える。前を走る一般車。複雑になる流れ。ランダムに見える動き。でもブラックバードは、それを避けるんじゃない。“使っている”。空いた隙間じゃない。空けさせた隙間を通っていく。
(……違う)わたしは奥歯を噛む。悔しい。でも同時に、目が離せない。あの走りを、もっと見たいと思ってしまう自分がいる。
倉田くんのシビックが前に出る。スリップストリーム効果で私と倉田くんの速度は異次元に上がっていく。
都心環状線へ入る。視界が狭まる。逃げ場のない空間。その中で、黒い影だけが異様に自由に動いている。
本来、左へ行くはずだった丸田町ジャンクジョンを直進する。もちろん、棄権してこのまま帰るわけにはいかない。そしてすぐさま前方に案内標識があり右上には白い構造物。オービスがある。
前を走る倉田くんがブレーキランプを5回点灯させて私に合図する。でもブラックバードは減速しない。一瞬、迷いがよぎる。でも、すぐに消える。
ブラックバードが、ほんの一瞬だけ鈍る。その隙にオービス通過するも閃光はなし。ブラックバードはすぐに飛ぶように加速する。まるで何事もなかったかのように。「……誘ってる」思わず呟く。
鶴舞南ジャンクションを通過し、3号大高線へ。私はZ君を前に出そうとする。笠寺インターを過ぎたコーナーでラインを取り乱したブラックバードの前へ滑り込む。完全には塞がない。でも、自由にはさせない。わずかな幅。その中で、相手のラインを縛る。倉田くんが横から一気に追い越しをかける。
(……やった)胸の奥が熱くなる。あのときできなかったこと。今できた。でも、まだまだ終わりじゃない。
3連続分岐を右へ行く。料金所をゲートにぶつかるギリギリの速度で通過し、伊勢湾岸道 静岡方面の分岐を右へ行く。ここからは、直線で純粋な速さの勝負。
ブラックバードが、本気で加速する。圧倒的に速い。あっという間に追い抜かれ距離が開く。でも負けない。いや、絶対に負けたくない!
倉田くんが前に出てスリップストリームモードに入る。アクセル踏む。Z君が応える。限界のさらに先の加速をする。
ブラックバードを捉え、「今!」その瞬間、二台で限界までアクセルペダルを踏み込む。完全にタイミングが合う。ブラックバードの前へ出た。倉田くんがブラックバードの進路を妨害する。その間に私はブラックバードを引き離す。
ミラーを見ると黒い影は、もう詰めてこない。距離が、一定のまま。「……勝った」。私は少しだけ力を抜く達成感と安堵が湧く。そして、まだ消えない高揚感。
ブラックバードは、そのまま直進していく。でも、その速度はさらに上がっていた。まるで言われているみたいだった。
「次は、もっと速く来い」と。
遠くに見えていた観覧車が一層と近づいてきた。
【第6章:ゴールの刈谷パーキング】
私たちは刈谷パーキングへ入るために左車線を流していた。
その中でブラックバードは減速しない。むしろ、さらに踏み込んでいるのが分かる。わずかに開いていた距離が縮まり、私たちを一気に追い抜いた。
私は、前を走るその黒い背中を、ただ見つめていた。距離はさっきよりも大きく開いている。それでも、見失うほどじゃない。テールランプの赤はまだはっきりと視界に焼き付いている。だけどあの加速の質は、さっきと変わらない。いや、むしろさらに研ぎ澄まされている気がした。踏み始めの鋭さ。踏み切った後の伸び。空気を切り裂くような直進安定性。どれを取っても、こちらの“常識”の一段上にある。
「……まだ行く気か」と倉田くんの声が届いた気がした。少し呆れたような、それでいてどこか楽しんでいるような、独特の響き。
次の瞬間、遠くで赤い閃光が、夜を真っ二つに切り裂いた。視界の端で、はっきりと焼き付く。あの独特の、逃げ場のない光。ほんの一瞬なのに、やけに長く感じる。時間が引き伸ばされたような、奇妙な感覚。
(……あ)思わず息が止まる。都心環状で回避したはずのオービス。あのときは、余裕で回避していた。でも、ここは違う。長い直線由来の高い速度域。そして、遮るものが何もない。逃げる余地も、誤魔化す余白もない。完全に踏み切った結果である。ブラックバードは、そのまま速度を落とさず、闇の奥へと消えていく。テールランプが小さくなり、やがて完全に見えなくなる。最後まで止まらない。最後まで捕まらない。最後まで、あのまま。”都市伝説”その言葉が、妙にしっくりきた。ただの噂じゃない。確かに存在して、確かに走っている。それなのに、誰にも捕まらない。
わたしはゆっくりとアクセルを戻す。Z君の速度が少しずつ落ち、周囲の流れに溶け込んでいく。さっきまで張り詰めていた神経が、じわじわとほどけていくのが分かる。左ウィンカーを出して刈谷パーキングへ分岐する。ブレーキを踏み減速するたびに、さっきまでの高い速度とのギャップが身体に返ってくる。こんなにゆっくりだったっけ、と錯覚するほど、世界が穏やかに感じる。
駐車スペースへ滑り込む。隣には、赤いキャデラックのオープンカー。低く長いボディが、街灯の下でゆったりとした存在感を放っている。さっきまでの緊張感とは、まるで別の世界だ。エンジンを切る。一瞬の振動のあと、静寂が訪れる。さっきまで耳を満たしていたエンジン音が、嘘みたいに消える。その代わりに、耳の奥に残った“余韻”だけが、じんわりと響いている。
ドアを開ける。外に出ると、夜風が頬に当たった。少し冷たい。でも、その冷たさが心地いい。身体の中に残っていた熱を、ゆっくりと冷ましていく。
「光ったな」倉田くんが、少しだけ笑い混じりに声を漏らす。その声には達成感と、ほんの少しの楽しさが混ざっている。
「光っちゃったね」と私は静かにそう言った。驚く気はなかった。むしろ、どこかで納得している自分がいた。あの走りを見ていれば、こうなることくらい予想できたはずだ。数秒の沈黙。風切り音と白いフォレスターのアイドリングのエンジン音だけが、耳に残る。その中で、ふっと笑いが込み上げてきた。「変わってないね」自然に出た言葉だった。1年前と、何も変わっていない。いやむしろ、さらに先に行っている。「だな」倉田くんも短く返す。
自販機の前に立つ。白い光がやけに明るい。500円玉を入れて、タリーズのブラックのボタンを押す。落ちてくる音が、妙に現実的に響く。缶コーヒーを二本取り出す。「はいどうぞ。勝たせてくれたお礼」と手渡すと「サンキュ」と倉田くんが言う。
フタを回してを開ける。カシュッ、という乾いた音。一口飲む。香りが鼻を抜けて、少し遅れて苦味が来る。それだけで、身体の緊張がほどけていく。
「……勝ったな」倉田くんが、ぽつりと言う。わたしはすぐには答えなかった。缶を持ったまま、少しだけ空を見る。街灯に遮られて星はほとんど見えない。でも、その奥には確かに夜が広がっている。「……うん」ゆっくりと答える。でも、それは単純な勝ちじゃない。
2年前の夜。何もできなかった自分。ただ見送ることしかできなかった、あの黒い背中。(やっと……)胸の奥で、何かがほどける。「やっと、追いついた気がする」思わず口からこぼれる。倉田くんは何も言わない。ただ隣で、同じようにコーヒーを飲んでいる。それでいい。その距離が、心地いい。
風が吹く。さっきより少しだけ冷たくなった気がする。わたしは小さく笑う。「光っちゃったけど、ブラックバードの人は警察に出頭するのかな」「多分な」と短いやり取り。でも、その中に全部詰まっている気がした。少しの沈黙。コーヒーをもう一口。
「でもさ」わたしは続ける。「やっぱり、ああいうの嫌いじゃないよ」自分でも、正直だと思う。怖いし、危ないし、全部分かってる。でも、あの瞬間の集中とか、全部が噛み合ったときの感覚とか、そういうのはどうしても嫌いになれない。倉田くんも、少しだけ笑った。「分かる」その一言で十分だった。
完全に勝ったわけじゃない。完全に終わったわけでもない。でも一つの区切りはついた。「また走るか」「うん」迷いはない。缶コーヒーの残り香が、まだ手に残っている。それが夜風で少しずつ冷めていく。その感覚が、妙に現実を引き戻してくる。
ブラックバードは消えた。でも、あの背中は、確実に焼き付いている。また現れる。きっと、どこかで。その時は「次は、もっと上手くやる」小さく呟く。その言葉は、自分に向けたものだった。倉田くんは、何も言わずに笑っている。
そのあと、ふと思い出したように、私は口を開いた。「ところでさ」「ん?」「さっき、ブレーキ5回踏んでたけど、あれはどういう意味なの?」と念の為に聞いてみる。
倉田くんが少しだけ間を置き「あーあれね、あそこオービスあるからさ」と答える。なんとなく予想はしていたけど、「……それって意味あるの?」と深掘りしてみる。「いや、なんか合図みたいな?」と倉田くん。「意味わかってる?」「いや、わかんねーし」
思わず吹き出す。「何それ」「なんでもいいだろ」「なんでもよくないでしょ」そう言いながら、また笑ってしまう。さっきまであんなに張り詰めていたのに、今はこんなくだらない会話で笑っている。でも、それがいい。
刈谷の夜は、静かに流れていく。クルマの出入り、遠くのエンジン音、自販機の光。そのすべてが、ゆっくりとした時間を刻んでいる。でも、その中で私たちの中に残ったものは、確かだった。あの黒い影。あの速度。あの一瞬の駆け引き。そして届いた感触。すべてが、次につながっている。
夜はまだ終わらない。そして、きっとまた走り出す。そのときはもう少しだけ、あの背中と倉田くんに近づける気がしていた。(完)


