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【第1章:班長お疲れっす】
6月12日金曜日の25時30分を過ぎた頃。弥富の倉庫街は、昼間の姿を知っている人間からすれば信じられないほど静かだった。ほんの数時間前までここは“戦場”だった。大型トラックがひっきりなしに出入りし、フォークリフトや最近導入した無人運搬機がそこら中を走り回り、人の声とパトライトのメロディとエンジン音がぐちゃぐちゃに混ざって、とにかく止まる暇なんてなかった。時間の感覚なんてとうに飛んでいて、ただ次の荷、次の指示、次の動きだけを追い続ける空間。それが今はどうだ。音と呼べるものはほとんど残っていない。
いや、正確には“なくなった”わけじゃない。さっきまで確かにあった膨大な音と気配が、一気に引き剥がされて、空白だけが残っている。その空白が妙に現実感を薄くする。耳鳴りみたいに、さっきまでの喧騒が残響として残っている気すらする。エンジンを切ったばかりのトラックが、小さく金属を鳴らしている。熱を逃がす音だ。パキン、とかチリチリとか、そんな微細な音がやけに鮮明に聞こえる。遠くの方ではコンテナクレーンがゆっくり動いているらしく、規則的な機械音がかすかに届いてくる。その一定のリズムが、逆にこの静けさを強調していた。
ガラガラガラ、と鉄製シャッターが降りてくる音がやけに大きく響き、最後にドン、と鈍い音が腹に残る。それで、今週は全部終わりだと、身体がようやく理解する。
「……終わったな」気づいたら口に出していた。別に言う必要なんてない。誰に聞かせるわけでもない。けど言葉にしないと、“終わった”って実感がどこかに逃げていきそうだった。そんな日もある。
6月の昼間はすでにジリジリと暑い。夜はモワッと蒸し暑く感じる、そんな気候だった。
更衣室に入り、ヘルメットを外すと、中にこもっていた熱気が一気に抜けた。湿った空気が顔に触れて、ようやく現場から切り離された感覚が戻ってくる。前髪は完全に終わってる。汗で張り付いて、指で触ってもどうにもならないレベルだ。首に手を入れると、インナーがべったりと肌に張り付いていた。剥がすときに、じわっと嫌な感触が残る。
タオルで首から鎖骨まで拭く。ざらっとした感触。汗だけじゃない。埃、粉塵、フォークリフトの油、段ボールの繊維みたいな細かいゴミ。そういうのが全部混ざってる。普通なら不快なはずなのに、俺にとっては違う。
「ああ、今日もちゃんとやったな」っていう、証拠みたいなもんだ。時間を潰したわけじゃない。身体を動かして、頭を使って、現場を回した。その結果がこの汚れとして残ってる。だから嫌じゃない。
「班長、お疲れっす」後ろから声。まだ慣れない呼ばれ方だが、振り返らなくても分かる。畔柳だ。
「おう」短く返す。けど、すぐにはそっちを見なかった。視線は自然と現場の方に戻る。パレットの位置、フォークリフトの止め方、通路の空き、積み残しがないか。どれも基本中の基本。だけど、この“基本”が最後まで揃ってる現場って、意外と少ない。今日は整ってた。流れも良かったし、無駄もなかった。誰も無理してなかったし、変な詰まりもなかった。それは分かる。
分かるけど、満足はしない。
俺は4月からC班の班長になり、チーム倉田を回している。肩書きがついただけで、やってること自体は大きく変わらないはずなのに、終わっても終わらない。頭の中ではチェックがずっと続いてる。どっか見落としてないか、誰かに無理させてないか、翌日に変なもん残してないか。今日うまくいった理由は何で、逆に崩れるとしたらどこか。考え出したらキリがない。それが“責任”ってやつなんだろう。
「今日、めっちゃスムーズでしたね」畔柳が言いながらペットボトルを開ける。プシュッ、て音がやけに静かな空間に響く。
「まぁな」それ以上は言わない。褒めるより、同じことを次もやれるかの方が大事だ。
「班長の段取り、ハマりましたよ完全に」
「そういうのいいから」軽く手を振る。けど否定はしない。今日の結果は偶然じゃない。流れの組み替え、人の配置、詰まりそうなとこの先回り、細かい指示の積み重ね。それが噛み合った結果だ。でも、一つズレたら全部崩れる。だから浮かれる気にはならない。
「でもやっぱ班長って大変っすよね」畔柳の声が少し落ちる。
「責任、全部来るじゃないですか」
「来るな」即答だった。「何かあれば全部こっち」肩を回す。筋肉の疲れとは別に、目に見えない重さが乗ってる感じがする。
「それキツいっすね……」
「キツいぞ、普通に」少し笑う。けど軽くはない。ミスがあれば報告、問題があれば対応、上からの展開も来る。判断も、最終的にはこっちに振られる。逃げ場はない。
しばらく無言。遠くでトラックが動き出す音がする。その低いエンジン音を聞きながら、ぽつっと言う。
「……給料、変わんねぇけどな」一拍置いて、畔柳が吹き出す。
「それ言っちゃいます?」
「言うだろ普通」少し笑う。でも乾いてる。現実はシンプルだ。仕事は増える、責任も増える、でも金は増えない。
「最近マジでキツくないですか? ガソリンとか」
「ああ……」
空を見る。星は少し見える。でもオレンジの街灯の光の方が強い。
「ニュース見ました?」
「見た」ホルムズ海峡封鎖。遠い場所の話のはずなのに、確実にこっちに影響してくる。
「ハイオク200円いきますよねこれ」
「いくだろうな……」頭の中で計算する。満タンでいくらだ、月に何回入れる、走る距離はどうする。削れるか?減らすか?……いや。
「普通の人なら燃費のいいクルマに乗り換えますよね」
「だろうな」合理的に考えれば、それが正解。でも視線は自然と駐車場へ向く。街灯の下にある赤いシビックタイプR。あれはただの移動手段じゃない。
「マジで勘弁してほしいわ……」少し黙る。でも結論は最初から決まってる。
「それでも走るけどな」即答。迷いはない。
畔柳が笑う。
「やっぱそうなります?」
「そこ削ったら終わりだろ」理屈じゃない。走るのをやめるってことは、自分の中の何かを削るってことだ。
「じゃあ今夜、軽く行きます?」自然な流れ。少しだけ考える。金、ガソリン、来週の仕事……それと、あの夜の蒼いZ。並んだ一瞬。音も、振動も、距離感も、全部が一致したあの感覚。
「あれ以上はねぇ」気づいたら口に出てた。
「え?」
「いや……なんでもねぇ」首を振る。ポケットからキーを出す。ピ-ピッと電子音。赤いシビックが静かに応える。
「……行くぞ」理由はいらない。夜はまだ終わってない。それにどこかでまだ、続きを待ってる気がしてた。
【第2章:赤と黄が交差する鍋田の夜】
深夜2時を回った頃、愛知県弥富市鍋田の工業地帯。昼間は大型トラックがひっきりなしに走り回り、コンテナを積んだトラックが列を成し、動き続けるこの道も、この時間になるとまるで別物だった。物流の動脈なんて呼ばれている一直線の道路も、夜になるとただの長いアスファルトに戻る。もっとも、それを“ただの道”にするかどうかは、使う人間次第だ。
街灯のオレンジ色の光が等間隔に路面を照らし、光と影が規則的に連なって流れていく。そのリズムは、まるで目に見える速度計のようだった。遠くにはナガシマスパーランドの明りが浮かび、その光が夜空へ溶けていく。ゆっくりと形を変えながら流れていくその様子は、時間そのものが可視化されているようにも見える。その静かな動きに呼応するかのように、俺たちは速度を落とし路肩へとへ停車させる。
初夏の風は少し湿っていた。海に近いこの場所特有の、潮の匂いと油の匂いが混ざった空気が肌にまとわりつく。決して綺麗とは言えない匂いだが、不思議と嫌いじゃない。むしろ、この場所に来たという実感を強くさせる匂いだった。
その空間の中に、俺のホンダ シビック タイプRと、後ろに並ぶ畔柳のスズキ スイフトスポーツ。赤と黄色の組み合わせは、暗い夜の中でやけに鮮やかに浮かび上がる。まるでこの場にいること自体が異物であるかのように、それでも確かに“ここにいる”と主張していた。
「ここ、いいっすね」畔柳が周囲を見渡しながら言う。ただ景色を眺めているわけじゃない。その目は、路面の状態、見通し、逃げ場、すべてを無意識に測っている。“走る場所としてどうか”を見ている目だ。
「直線長いしな。練習にはちょうどいい」俺は前方を見たまま答える。すでに頭の中では走り始めている。どこでアクセルを踏み、どこで抜き、どこで向きを作るか。ブレーキのタイミング、ステアリングの切り角、荷重の移動。実際に動く前に、ある程度の流れは組み上がっている。
街灯に照らされた路面をよく見ると、微妙な色の違いや、わずかなうねりが浮かび上がってくる。昼間なら気にも留めないレベルの変化だが、この速度域ではすべてが意味を持つ。“情報”として頭に入ってくる。静かだ。だが、その静けさの中に張り詰めたものがある。
「ただし」
「はい?」
「無茶すんなよ」軽く言ったつもりだったが、その言葉の中身は軽くない。ここはサーキットじゃない。ミスすれば終わる場所だ。
「了解っす」返事は軽い。だが目は真面目だ。その一点で十分だった。軽く頷く。
「よし、行くぞ」アクセルを踏む。ほんの一瞬のラグのあと、ターボが効き始める。吸気音が変わり、圧が乗る感覚が足裏から伝わる。そのまま一気に前へ出る。タイヤが路面を掴み、車体が押し出されるように加速する。背中がシートに押し付けられ、視界の流れが一段階速くなる。
遅れてスイフトスポーツが追ってくる。絶対的なパワーはこっちが上だが、あっちは軽さがある。ミラーの中に黄色が現れる。しっかりと食らいついてきているのが分かる。
「いいじゃねぇか」自然と口元が緩む。イケアの倉庫を超えた先の信号を左折する。この先は行き止まりだが、ロータリーみたいになっていて、1周回れる。コーナーに差し掛かる。強くブレーキを当て、フロントに荷重を乗せる。ノーズが沈み、タイヤが路面を噛む感覚が手に伝わる。ステアリングを必要分だけ切る。あとはクルマに任せる。余計な操作はしない。
立ち上がりでアクセルを踏み込む。再びブーストが立ち上がり、トルクが一気に出る。車体が前へ跳ねるように伸びる。差が開く。ミラーの中で黄色が一瞬遅れる。それでも消えない。その距離感がちょうどいい。走りはまだ荒い。ラインも甘い。荷重の乗せ方も粗い。だが、それでも“前に出ようとしている意思”ははっきりと伝わってくる。その姿を見た瞬間、自然と頭に浮かぶ。
今週月曜日のことだった。
「……は?」思わず声が出た。休み明け、俺はいつも通り出勤した時に目に入ったのは、見慣れない黄色の車体だった。スズキ スイフトスポーツZC33S。その運転席に座っていたのは、間違いなく畔柳だった。
「おまっ……マジで買ったのか!」
「買いました!」畔柳が満面の笑みを浮かべ、迷いの欠片もない顔。
「いや早ぇだろ」
「一目惚れっす」
「カネは?」
「班長と同じ漢の120回フルローンっす!」即答。一切の躊躇なし。
「バカだろ」反射的に出る言葉。でも、それ以上は続かない。その顔が、昔の自分と重なったからだ。初めて欲しかったクルマを手に入れた時のあの感覚。理屈なんてどうでもよくて、ただ欲しくて、手に入れた。それだけで世界が変わったように感じたあの瞬間。
「……維持できんのかよ」
「なんとかします!」根拠はない。でも、それでいい。そういうもんだ。
「……まぁいいけどな」と言いつつ車体を一周する。ほぼノーマル。それがいい。まずはクルマの素を知るべきだ。
「走ったのか?」
「ちょっとだけっす」
「じゃあ週末走るぞ」その一言で目の色が変わる。ああ、いいなと思った。
そして今、その約束通り走っている。
信号を左折し、大通りへ復帰する。
右コーナーで、あえてブレーキを遅らせる。奥まで我慢する。フロントが外へ逃げようとする。わずかにステアで修正。タイヤが限界に近づく手前の感触。それをギリギリで抑え込む。
「まだ甘いな」自然と口に出る。ラインも荷重もタイミングも、まだ詰められる。次の左コーナーでさらに差が開く。それでもミラーの中の黄色は消えない。しつこく、粘るように食らいついてくる。その姿が、昔の自分と重なる。速いやつに追いつきたくて、怖さより悔しさを優先して踏んでいた頃。
いいじゃねぇか。そういうの、嫌いじゃない。
最後のストレートで、大人気なくフルチューンの450馬力を発揮する。140馬力のスイスポとは差が歴然である。国産リミッターを超えたあたりでフルブレーキをしてUターンをする。
窓から夜風が入り込む。潮の匂い、機械の熱、アスファルトの温度。それらが混ざり合った独特の空気が、肺の奥に入ってくる。妙に落ち着く。しばらくしてアクセルを抜く。速度を落とす。畔柳も同じように合わせてくる。並走したまま減速し、路肩へ寄せる。エンジンの熱がまだ残っている。ボンネットの向こう側から、わずかな熱気が立ち上るのが分かる。身体の中にも、同じように熱が残っている。
「はぁ……っ!」畔柳がドアを開けて降りてくる。息が上がっている。
「めっちゃ速いっすね……!」
「当たり前だろカネかけてんだから」適当に返す。でも視線は別のところに向いている。楽しかった。それは間違いない。
だが、比べてしまう。あの夜。蒼いZと並んだ一瞬。速度も、距離も、呼吸も、すべてが噛み合ったあの感覚。
「あれ以上はねぇな…」気づけば口に出ていた。
「え?」
「いや、なんでもねぇ」誤魔化す。でも、その感覚は消えない。あの一瞬の“完成された走り”あれを超えるものは、まだない。
夜はまだ終わっていない。そしてどこかで、その先の“本当の続き”が、まだ待っている気がしていた。
【第3章:静かなる撤収と帰る場所へ】
5月末の平日の午前中。仁川にある韓国事業所オフィスは、いつもと変わらない速度で回っていた。規則的に響くキーボードの打鍵音、一定の間隔で鳴る電話の呼び出し音、短く簡潔に交わされる報告と指示。それらが幾重にも重なり合い、空間全体を一つの“装置”のように機能させている。
誰かが止まればどこかに歪みが生まれ、誰かが遅れればどこかが詰まる。その連鎖を防ぐために、すべての動きは無駄なく整えられている。そして、この現場ではそれが維持されていた。流れは常に一定に保たれ、滞りも過剰もない。
私、蒼井エミリは、その中心にいた。一番奥の窓際の自席に腰を下ろし、モニターに映る数値を静かに見つめる。画面上にはここ数ヶ月の物流コストの推移と輸送ルートごとの収支バランスが淡々と並んでいる。数字は正直だった。そこには言い訳も感情も入り込まない。そして誤魔化しも効かない。グラフは緩やかな変化ではなく、明確な“崩れ”を描いていた。目に見える形で、バランスは破綻へと向かっている。
「……来てるわね」ほとんど息に近い声で呟く。ここ数週間で状況は確実に変わった。原因は一つではない。複数の要因が絡み合い、少しずつ歪みを拡大させている。だが、そのすべての起点となっているものは明白だった。”ホルムズ海峡封鎖”。遠い異国の海域で起きた出来事。それでも物流という巨大な循環の中で、その影響は確実に伝播してくる。輸送コストは上昇し、スケジュールは乱れ、契約条件は見直しを迫られる。そのすべてが連鎖し、最終的に“現場の数字”として現れる。そして今、その歪みは限界に近づいていた。
その時、内線の呼び出し音が規則的な環境音の中にわずかな違和感を混ぜる。受話器を取る。「お疲れ様です。韓国事業所蒼井です」だが、告げられた内容に視線がわずかに止まる。「……今からですか?」日本本社の取締役を含む上層部が本日中に現地入りする。理由は告げられない。だが、それで十分だった。説明されないことこそが、その重さを物語っている。「承知いたしました。受け入れ準備を進めます」静かに答え、通話を切る。
受話器を戻したまま、ほんの数秒だけ動かない。思考が一瞬だけ空白になる。だが、それもすぐに終わる。「第一会議室をすぐ使えるように空けておいて!」「来客対応するから優先順位上げて」指示を出した瞬間、空気が変わる。目に見える変化ではないが、確実に“何かが起きる”という気配がフロア全体に広がる。それでも誰も騒がない。無駄な質問も憶測もない。ただ、それぞれが自分の役割を理解し、必要な動きに移る。それがこのチームだった。
夕方過ぎ。黒いセダンがビルのエントランスへ滑り込む。降りてくる男たちの立ち姿、その纏う空気は現場の人間とは明らかに違う。決定権を持ってくる側の人間。私は最前列で出迎える。「お疲れ様です」「急で悪いね」その一言にすべてが含まれていた。上層階の会議室へ案内する。窓の外には港湾の景色が広がっているが、誰も目を向けない。席に着く。テーブルの上には何もない。資料もデータも存在しない。それがこの場の異質さを示していた。
短い沈黙の後、取締役が口を開く。「結論から言う」「韓国事業部は閉鎖する」その一言で、すべてが決まる。私はゆっくりと頷く。「承知しました」声は静かで揺れはない。理解しているからこそ動じない。「撤収期間は一ヶ月。その間に完全に機能を止める」「蒼井さん、あなたに統括責任者として最後まで任せる」「はい、お引き受けいたします」即答だった。この瞬間から、この現場は“終わらせるための現場”へと変わる。
会議はそれだけで終わる。議論も補足もない。必要ないからだ。すべてはすでに決まっている。オフィスへ戻りフロアを見渡す。いつも通りの動き。いつも通りの声。だが、その日常は長くは続かない。それを終わらせる役目が自分にある。小さく息を吐く。「少し、いい?」それだけで空気が変わる。「全員、手を止めて」音が止まる。静寂の中で言葉を紡ぐ。「本社から正式な決定が来た。韓国事業部は閉鎖になる。期間は一ヶ月。その間にすべて整理する。最後まで、この拠点を回しきる。それが仕事、いい?」短い言葉。だが、それで十分だった。
一同の「はい」の返事から、やがてキーボードの音が戻る。少しだけ重い音。それでも止まらない。終わるための仕事が静かに始まる。私はその光景を一瞬だけ見つめ、ゆっくりと視線を外した。迷う余地はない。ただやり切るだけだ。
韓国事業所閉鎖に目処がつき、帰国一週間前の日曜日夜。私は自宅マンションのソファに座り、スマートフォンを見ていた。普段と変わらないはずのそれが、この瞬間に限って妙に重い。連絡先一覧をスクロールする指はどこか慎重だった。やがて止まる。”倉田洋三”。その名前を視界に捉えた瞬間、別の時間の流れが生まれる。胸の奥に残るわずかな引っかかり。懐かしさとも安心とも違う、曖昧だが確かな感覚。
頻繁に連絡を取っていたわけではない。だが、必要なときに必要な分だけ言葉を交わす。それで成立する関係。だからこそ今、このタイミングで連絡する意味に、わずかな迷いが生まれる。だが思考はすぐに途切れる。理由は単純だった。共に走りたい。それだけで十分だった。
指を動かし「久しぶり」と送信する。短い一文だが足りると分かっている。数秒の沈黙。やがて既読がつき、「おう、久しぶり」と返ってくる。その瞬間、身体の力がすっと抜ける。倉田くんは変わっていない。その事実が何より大きい。「急だけど、日本帰ることになった」「マジか」「いつ?」「今度の金曜」「夜に着く」指は迷わず動くが、その次で止まる。ここで終わればただの報告。だが、それでは足りない。
「もしよかったら」一度止める。「帰る日、来てほしいんだけど」「草津PAまで」「久しぶりに一緒に走りたいから」送信。静寂が部屋の空気がわずかに重くする。(急すぎたか……)そう思った瞬間、通知が鳴る。「ええよ」たった三文字。だが迷いはない。その潔さが彼らしかった。私は小さく笑う。「ありがと」「じゃあ、23時頃着くから、1年間の成果を見せてよね」と続いて送信する。「当たり前だろ」その返信で、胸の奥に熱が灯る。
スマートフォンをテーブルに置き、背もたれに身体を預ける。さっきまで頭を占めていた現実がゆっくりと遠ざかる。代わりに浮かぶのは、夜の高速、流れる街灯、並走する赤いシビック。あの時間、あの空気。「……行こっか」声に出した瞬間、それはもう決定だった。
無意識に鍵を手に取り外へ出る。夜の空気が身体に触れる。街灯の下、セイランブルーのフェアレディZが静かに佇んでいる。ドアを開け、シートに沈む。スタートボタンを押す。低く芯のあるエンジン音が響く。ステアリングに手を置き、ゆっくりとアクセルを踏む。車体が前へ動き出す。
仁川の夜。完全に眠ってはいないが、昼とは違う静けさがある。右側通行にも、もう違和感はない。身体が自然に対応している。高架へ上がり、視界が開ける。アクセルを踏み込むとエンジンが応え、車体が滑るように前へ出る。緩やかなカーブ。ステアリングをわずかに切る。すべての感覚が身体に直接伝わる。「悪くないわね」だがすぐに分かる。これは峠ではない。それでもいい。今はこれでいい。
赤信号で止まる。異国の夜景。築いたもの、失うもの、そして帰る場所。青信号になりアクセルを踏む。ほんの数分のドライブ。それで十分だった。すべてが整理される。
自宅へ戻り、エンジンを切る前にわずかな間を置く。静寂の中に余韻が残る。その先にあるのは“再会”。そして、あの続きを走る夜だった。
【第4章:再会する青いZと赤いシビック】
22時の草津パーキングエリア上り。名神高速道路の草津ジャンクションの手前にある、このパーキングエリアは、昼間とはまったく別の顔を見せていた。照明に照らされた広いアスファルトはどこか現実感の薄い光を放ち、規則的に並ぶ街灯は地面に長い影を落とし、その影すらも静止しているように見える。
無数の大型トラックがエンジンをかけたまま停車している。低く唸るディーゼル音が一定のリズムで空間を満たしているが、それは騒音ではない。むしろ、この場所の“基準音”のように背景へと溶け込んでいた。乗用車の数は少なく、時折一台が入ってきてはまた出ていく。その流れすらどこか緩やかで、急ぐ気配がない。
そんな静寂の中、私の青いZくんが照明の下に静かに佇んでいた。セイランブルーの日産フェアレディZ RZ34。そのボディは光を受ける角度によって表情を変え、深い青にもわずかに明るい青にも見え、まるで感情を持っているかのようにそこに存在していた。
エンジンはすでに止まっているが完全に冷えてはいない。仁川から釜山、フェリーに乗り、そこからさらに博多から草津と長距離を走り続けてきた金属の熱が、まだ内部に残っている。私は運転席に座ったままハンドルに手を置いていた。その手にはわずかな疲労が残っているが、不思議と重さは感じない。視線は前方へ向けられているが、実際に見ているのは目の前の景色ではなく、ここに来るまでの時間だった。
仁川を出たのは6月25日木曜日の朝だった。すべてを終わらせた後の事で、水曜日に韓国事業部の完全閉鎖、一ヶ月という短い期間の中で現場を崩さず精度を落とさずすべてを終わらせた。データの整理、契約の処理、人員の再配置、設備の撤収、一つでも遅れれば全体に影響が出るそのバランスを最後まで維持しきり、無事に終わった。区切りははっきりしていた。だからこそ迷いはなかった。
荷物は最小限。必要なものだけを持ち、それ以外はすべて国際郵送で送った。向かった先は釜山港。夜の港湾は独特の空気を持っていて、巨大な船体が無言で並び、コンテナが積み上がり、クレーンが静かに動く。そのすべてが巨大でありながらどこか非現実的で、その中にあるフェアレディZは明らかに異質だった。だがそれでいい。それが、私の“帰り方”だった。
博多港行きのフェリーにZを預けてデッキへ上がる。夜の海は光が少なく、釜山の街の明かりがゆっくりと遠ざかっていく。風は強いが心地よく、頭の中に残っていた雑音を一つずつ吹き飛ばしていくようだった。韓国での時間、積み上げたもの、終わらせたもの、それらが海の向こうへ置いていかれる。だが空白にはならない。その先にあるものがはっきりしているからだ。日本、そして倉田くんという存在。
フェリーは一晩かけて日本海を渡る。揺れは穏やかだったが眠りは浅く、何度も目が覚めるたびに同じことを考える。「走る」。ただそれだけ。余計な感情はないが、その単純さが強かった。
朝、博多港に着く。柔らかい光の中で再びZに乗り込み、ドアを閉めた瞬間に外の世界が切り離される。スタートボタンを押すと低く芯のあるエンジン音が立ち上がり、その瞬間すべてが繋がる。音、振動、操作感、“戻ってきた”という実感が身体の内側から立ち上がる。左側通行に最初だけわずかな違和感はあったが、それもすぐに消えた。身体が覚えている。ハンドルの切り方も、加速のタイミングも、ラインの取り方も。
午前中は博多駅周辺を散策したが、あまり楽しくはなかった。早く倉田くんと走りたい、その気持ちがすべてを上書きしていた。昼食を食べ終えて、私は博多駅を後にした。福岡都市高速から九州自動車道へ入り、アクセルを踏み込むとZが前へ出る。関門橋を渡り本州へ入り、中国道から山陽道へと繋ぎながらひたすら距離を重ねる。サービスエリアで給油し、燃料の減りや価格という現実を一瞬だけ見るが、それでもアクセルは緩めない。
神戸ジャンクションで新名神に入る頃には薄暗くなっていた。交通量は程よく、路面はクリアで視界も広い。アクセルを踏み込むと回転が上がり音が変わる。VR30DDTTの滑らかな加速の中で身体と車が一致し、思考が消えて感覚だけが残る。待ち合わせ場所の草津パーキングエリアへ向かう前に宝塚サービスエリアに立ち寄った。宝塚サービスエリアはトイレが豪華だと有名で、ちょっと行ってみたかった。夕食にオムライスを食べて再び走り出す。
京都を抜け滋賀に入り、少し走ると車線が広くなる。左ウインカーを出して一番左斜線へ移動し、減速して流れから外れる。草津パーキングエリアの駐車スペースにZくんを入れてエンジンを切り時計を見ると、予定より一時間早い22時だった。その瞬間、ようやく帰ってきた実感が追いつく。そう、ここが倉田くんと再会の場所だ。
数分、何もせずに待つ。だが長くは感じない。やがて青白いLEDのヘッドライトが近づき、低くワイドなシルエットのフレームレッドが現れる。自然と口元が緩む。隣に停車し、エンジンが止まりドアが開く。「……マジか」という声は変わらない温度を持っていた。
ドアを開けると夜の空気が流れ込む。「久しぶり」と言えば、「お……おかえり」と返ってくる。その一言ですべてが繋がる。距離も時間もここでリセットされる。沈黙は続くが、それは心地よかった。
「はい、これお土産」と博多駅で買ってきた、めんたいふりかけを倉田くんに手渡す。「えっ韓国行ってたんじゃねぇのかよ」と聞かれたけど、「倉田くんは韓国の甘いお菓子よりこっちの方が喜ぶかなって思って」と返すと「ありがとう、確かに俺的にはこっちの方が嬉しいな」と喜ばれた。どうやら私の目論みは大正解だったらしい。
「走る?」と聞けば、「そのために俺を呼んだんだろ」と返ってくる。それだけでいい。「その前にコーヒー飲む?」と聞き、タリーズの缶コーヒーを手渡すと「なんか悪いな」「来てくれたお礼」と短いやり取りを交わし、二人で並んでコーヒーを飲む。
「わざわざ来てくれたんだね」と再確認する。「まあ、たまたま消滅しそうな有給が余ってたかなら」と答えてくれた。
やがてクルマに戻り、ドアが閉まり世界が分かれる。スタートボタン、エンジン始動、隣でも同時に音が立ち上がる。V6と直4、違う音が調和する。草津ジャンクションを左へ行き、新名神へ合流した瞬間、空気が変わる。新名神は真っ暗で、反射板だけが行く先を示している。
アクセルを踏む。ブーストが1.4キロかかり、Z君が応えてくれる。横には赤が並ぶ。離れない。三車線になりトンネルに入る。光のリズムが速度を伝える。わずかなステア修正に対して同じように動くシビックの気配が伝わる。久しぶりのこの感じが妙に心地よい。
トラックに追い越し車線を塞がれ減速、すぐさま再加速。完全な同調ではないが、ズレすぎてもいない。その絶妙な間合いが、この関係そのものだった。
やがて鈴鹿トンネルを越えて三重県へと入る。ここではまだ故郷の東海地方の空気を感じられない。亀山西ジャンクション、四日市トンネルを抜け、菰野ICが近づく。アクセルを戻すと同時に右車線を走っていた倉田くんのシビックが私の後ろに入る。ウインカーが同時に点滅し、二台は並んだまま流れを外れる。
菰野ICの料金所を抜け、右折する。一般道へ入り、私たちの速度は落ちるが空気は途切れない。むしろここからだった。前方に広がる闇、山の気配。
そこは鈴鹿スカイライン。
私は小さく息を吐く。「よしっ行こっか」。その言葉を聞かなくても、倉田くんは理解している。
ここから先が、本当の“走り”だ。続きの夜が、そこにあった。
【第5章:久しぶりの鈴鹿スカイライン】
突き当たりを右折し、国道477号線に入った瞬間、空気が変わるのがわかる。麓でまとわりついていたぬるい温度はまだ体のどこかに残っているはずなのに、標高を上げるにつれてその記憶ごと削ぎ落とされていくようで、窓の隙間から入り込んでくる風は冷たく乾いていて、わずかに張り詰めた硬さを帯び、その空気が首筋に触れるたびに意識の奥で何かが切り替わっていく。
ここ三重県三重郡菰野町にある国道477号線の鈴鹿スカイラインは俺と蒼井さんが初めて出会った場所である。遡ること2年前、俺は青いフェアレディZに追いつけなくて悔しい思いをした。けど、今の俺なら追いつける。むしろ追い越せる。
前を見ると街灯はすでになく、ヘッドライトの照射範囲だけが世界のすべてになる。センターラインの反射、ガードレールの輪郭、夜露でわずかに濡れたアスファルトが鈍く光を返し、その限られた情報の中から必要なものだけを拾い上げて瞬時に判断していく感覚は、日常のあらゆる雑音を切り離してくれる。ミスは許されないが、その緊張すら心地いい。
視線の先にはセイランブルーのフェアレディZ、そのテールランプの赤が闇の中で鮮明に浮かび、その一挙手一投足を逃さないように意識を集中させていると、蒼井さんのZがわずかに減速した。完全停止ではないが明確な区切りを示す減速、それが合図だと理解した瞬間、自然とハンドルを握る手に力が入り、指先で革の感触を確かめながらアクセルに乗せた右足の角度を微調整し、タイプR特有のターボラグすら計算に入れた踏み込みのイメージを頭の中でなぞる。
自分でも驚くほど無駄がなく、次の瞬間には、前を走るZが迷いなく動き出していた。唐突な加速ではなく流れの中で自然に速度を乗せていくその動きは、それだけで技量を物語っていて、わずかに間を置いたあと意図的にアクセルを踏み込むと、タービンが回り始めて一拍の溜めのあと一気にブーストが立ち上がり、トルクが前輪へ叩きつけられて軽い車体が路面に押し付けられ、その反発で弾かれるように前へ飛び出す。背中がシートに押し付けられ、視界がわずかに狭まる感覚の中で、すでにこの走りが“始まり”ではなく“本気”であることを理解する。
前を行く蒼井さんのラインはあまりにも美しく、無駄のない最短距離を最小の舵角で繋ぎながらブレーキ、ハンドリング、アクセルのすべてが滑らかに連続していて、それが余裕ではなく限界の内側を正確になぞっている結果だとわかるからこそ、「負けるかよ」と自然に言葉が漏れる。
希望荘を通過する。
次の左コーナー、通常よりもワンテンポ遅らせてブレーキポイントを引きつけ、さらにもう一歩奥で強く踏み込むとフロントに一気に荷重が乗ってノーズが沈み、タイヤがアスファルトを噛む感触がステアリングを通じて伝わる一方でリアがわずかに軽くなり、その不安定さを恐れるのではなく制御可能な領域として受け止めたままコーナーへ進入する。
中速コーナーでZはリズムを崩さず、正確で一定の減速と最適な進入角から迷いなく立ち上がる完成された走りを見せるが、だからこそこちらはあえてそれを崩す選択を取り、ブレーキを奥まで残して進入をコンパクトにし、フロントに荷重を残したまま向きを変えて立ち上がりで強く踏み込むことでラインはわずかに荒れるものの、その代償として確実に距離が詰まっていくのがわかる。
テールランプが明らかに大きくなり、手応えを感じたその瞬間、Zの挙動がほんのわずかに変わる。アクセルの踏み方が変わり、立ち上がりのトルクの乗せ方が一段鋭くなり、ラインの精度もさらに高まることで距離が再び開き始め、「くっ……!」と無意識にアクセルを踏み増す。エンジンが唸り、前輪が必死に路面を掴んで前へ進もうとする。
次に迫るヘアピンで勝負をかけると決め、さらに奥までブレーキを我慢して限界ギリギリで踏み込むとフロントがわずかに逃げ、タイヤが悲鳴を上げて車体が外へ流れるが、そこで引かずにステアリングを当ててアクセルを微調整し、荷重を乗せ直してグリップを回復させることでその挙動をねじ伏せ、そのままイン側へ強引にラインを修正する。
そして次の瞬間、Zの横に俺のシビックが並んでいた。距離はほぼゼロ、ミラーの端に映る青いボディと重なり合うようにエンジン音が響き、ターボの低音とZの高回転サウンドという全く異なる性質の音が同じ回転域、同じ負荷、同じ時間の中で共鳴していることに気づいた瞬間、「ははっ……!」と笑いが漏れ、「最高だろ、これ」と誰に向けたわけでもない言葉が自然と口をつく。
それでも次の瞬間にはZがわずかに前へ出て、無理に並び続けることも突き放すこともなく、この絶妙な距離と間合いを保ったまま二台は限界の一歩手前をなぞり続ける。やがて呼吸が整うのと同時にどちらからともなくペースが落ちていき、合図はないがそれで十分だとわかる。勝負ではないし決着もいらない。ただ走った、その事実だけがすべてだった。
武平峠の駐車場に滑り込みエンジンを切ると、さっきまで支配していたすべての音が嘘のように消え去るが、虫の大合唱は止まない。体の中には振動も熱も緊張も確かに残っていて、ドアを開けた瞬間に流れ込んでくる、湿気を含んだぬるい空気がそれを現実へと引き戻す。眼下に広がる伊勢平野の夜景を眺めながら、蒼井さんの「楽しかったね」というシンプルな一言に「だな」とだけ返すと、それ以上の言葉は必要ないとわかる沈黙が心地よく流れる。
「戻ってきてよかった?」と聞けば、「うん、またここで走れるから」と迷いのない答えが返ってきて、その一言ですべてが腑に落ちる。
「倉田くんはもう帰るの?」と蒼井さんに聞かれた。「まあな」と返事する。
「倉田くんっていつも下道で帰るよね?」と立て続けに聞いてくる。「あぁ、下道でゆっくり流すのが好きなんだ」と返す。本当はカネがなく節約のためだが、少しカッコつけてみた。
「今日は私も下道で帰ろうかな。よかったら道案内してよ」と蒼井さんから意外な言葉が出てきた。驚いた俺だったが、「おう」と返す。
クルマに乗り込みエンジンをかける。虫の大合唱以外、静寂しきった武平峠駐車場に2台のエンジン音が響き渡る。俺が先導し、鈴鹿スカイラインを下る。下りでも俺は遠慮なくフルスピードで走る。蒼井さんのZもピッタリとついてくる。むしろ前を走る俺が邪魔なんじゃないかと心配になる程だ。俺はあえて、非バイパスの国道477号線を走り、四日市市街へ。
踏切を渡り、吉野家のある交差点を左折すると国道23号線だ。深夜の国道23号線はトラックの激戦区で、制限速度なんてものは形骸化している。そんなトラックの激戦区を赤と青のクルマが走る。
愛知県に入り、しばらく走ると左へ分岐した。国道302号線だ。ここは、ずっと片側2車線化の工事をしており、終わる気配がない。
かの里東交差点で俺は直進・左折レーン、蒼井さんは右折レーンへと入る。信号が青に変わり、俺は手を挙げて左折する。分離帯越しの右折レーンから蒼井さんも笑みを浮かべ、手を挙げて右折して行った。
程なくして俺は家に着いた。本来なら、ちょうど仕事が終わっている頃だ。畔柳のことが心配だったが、蒼井さんと走れたことの嬉しさが勝って気にも留めなかった。
セイランブルーのフェアレディZのミニカーを手に取り眺める。今夜は何故だか眠れなかった。


