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【第1章:成長した赤と黄】
2027年4月2日金曜日。 時刻は24時を回っていた。 世間的には、もう土曜日の午前0時。 新年度最初の週末だ。 名古屋駅や栄では、やれ新入社員歓迎会だの、やれ新年度飲み会だので盛り上がっている頃だろう。 居酒屋から溢れたサラリーマンたちが終電へ駆け込み、酔った大学生がコンビニ前で騒いでいる。 そんな時間だ。
俺…倉田洋三は、弥富市内の物流倉庫で、フォークリフトのバックブザーを聞いていた。 「はい、ラスト一列ー!」 現場作業者の声が響く深夜の倉庫。 LED照明に照らされた巨大な空間には、コンテナ、パレット、段ボールが山のように積まれている。 四月は 新生活シーズンだ。 家電、家具、日用品、ネット通販。 全部が一気に動く季節だ。 物流業界にとっては、地獄みたいな繁忙期でもある。
「畔柳、そっち最後確認したか?」 「確認済みっす!」 少し離れた場所で、黄色いヘルメットを被った畔柳が答える。 二年前までは、どこか頼りなかった。 だが最近は違う。 動きも早い。 周りを見る余裕も出てきた。 新人への指示も、少しずつ様になってきている。 今年度から、正式に班長候補。 俺が教育担当として、下期までに一人立ちさせる予定になっていた。 「倉田班長、こっち終わりました」 「了解。じゃあ最後、空パレ整理して終わりな」 「了解っす」 畔柳がフォークリフトへ飛び乗る。 フォークを操る動きも、前よりかなり滑らかだった。 正直、成長が早い。
「終わったぁ」 作業終了の声が響いた瞬間、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。 作業員たちがヘルメットを脱ぎ、休憩室へ向かっていく。 俺も軍手を外しながら、大きく息を吐いた。 肩が重い。 腰も痛い。 だが、不思議と嫌な疲れじゃない。 一週間を走り切った感覚。 金曜日の夜勤終わり特有の、妙な開放感があった。
俺はロッカールームへ入る。 古い換気扇の音。 汗と洗剤の匂い。 冷蔵庫のファンの音。 いつもの夜勤終わりの空気だ。 「班長お疲れっす」 呑気な声とともに、畔柳もロッカールームへ入ってきた。 タオルを首に掛け、いつものようにニヤついている。 「おつかれ」 俺はロッカーを開けながら返事をした。 「後輩、入ってきたな」 「俺まだ一度も会ってないっすよ」 畔柳が作業着を脱ぎながら言う。 「ああ、実は今日ちょっと話してきた」 「マジすか?」 「桑名工業高校出身だって」 「へぇ」 「しかもバイク女子」 その瞬間、畔柳の動きが止まる。 「……マジっすか?」 「ニンジャ400R乗ってるらしい」 「え、めっちゃ速そうじゃないっすか」 「いや知らんけど」
今日の出勤前。 研修中の新入社員たちへ挨拶しに行った時、少しだけ話した。 南出結衣さんというらしい。 彼女は三重県桑名市在住で最初は大人しそうな印象だったが、バイクの話になった瞬間だけ目の色が変わった。 「夜に走るの好きなんです」 そう言っていたのを覚えている。 「だから朝礼の時いなかったんすね」 畔柳が笑う。 「腹痛くてトイレ籠もってるのかと思ったっすよ」 「お前最近ちょっと俺イジるようになったよな」 「気のせいっす」 絶対気のせいじゃない。 新人だった頃はもっと遠慮していた。 だが最近は、普通にツッコんでくる。 まぁ、それだけ距離が縮まったってことかもしれない。 仕返しみたいに俺は言う。 「いやぁ、あの畔柳が班長かぁ。想像つかねーなぁ」 「俺も想像できないっすよ」 畔柳は笑いながらTシャツへ着替える。 「まぁでも、倉田班長の指導次第っすけどね」 「責任重っ」 「ちゃんと育ててくださいよ」 「まずお前がちゃんと育て」 「努力しまーす」 ロッカールームに笑い声が響く。 疲れてはいる。 だが、この時間は嫌いじゃなかった。 仕事終わりの深夜。 それが妙に落ち着く。 俺はロッカーを閉めながら言った。 「んじゃ、今から走り行くか」 「いいっすね!」 畔柳が即答する。 やっぱりコイツは元気だ。
25時9分。俺たちは倉庫を後にした。 外はやはり静かだった。 大型トラックが時折通り過ぎるだけ。 遠くでコンテナ船の汽笛が聞こえる。 街灯の下に二台のクルマが並んでいた。 フレームレッドのホンダ・シビックタイプR FL5。 そして隣には、チャンピオンイエローのスズキ・スイフトスポーツZC33S。 畔柳のスイスポは、最初に見た頃とは別物になっていた。 車高は低い。 ホイールは軽量鍛造。 フロントには大型インタークーラー。 近くで見ると、かなり本気の仕様だ。 「それにしても、イジったなぁ」 俺が言うと、畔柳は嬉しそうに笑った。 「班長と同じく、タービン以外ほぼ手入れたっす」 「ほぼ全部じゃねぇか」 「今200馬力ぐらいっすね」 「マジかよ」 「車重900キロくらいなんで、結構ヤバいっすよ」 ”軽さ”それはZC33S最大の武器だ。 絶対的なパワーはない。 だが、軽さで全部をひっくり返してくる。 峠でも湾岸でも、とにかく前へ出る。 しかも畔柳は最近かなり運転が上達していた。 ライン取り。 ブレーキング。 アクセルワーク。 全部が滑らかになっている。 「まぁ俺も、そろそろタービン交換しようと思ってるんだけどね」 「班長、さすがっす」 その羨望の眼差しは完全に沼へハマった人間の顔だった。 まぁ、人のこと言えないけど。 俺もFL5へ乗り込む。 プッシュスタートを押した瞬間にK20Cターボが目を覚ます。 低く重いアイドリング。 振動がシートへ伝わる。 やっぱりこの瞬間が好きだった。 畔柳のスイスポも続いて始動する。 こちらは軽快な排気音。 「今日どこ行きます?」窓を開けて畔柳が言う。 「とりあえず鍋田かな」 「了解っす」 二台はゆっくりと倉庫の駐車場を出た。
弥富市内の県道を抜け、名四国道へ入る。 深夜の港湾エリア。 大型トラック。 工場、倉庫、クレーン。 空は完全な暗闇じゃない。 工場地帯の光が反射し、薄く白んでいる。 この人工的な夜景が、昔から好きだった。 信号待ち。 横へ黄色いスイスポが並ぶ。 畔柳が窓を開ける。 「今日マジで調子いいっすよ」 「この前も聞いた」 「いや、今回はホントです」 青信号。 その瞬間。 スイスポが鋭く飛び出した。 「おっ……」 軽い。 まるで跳ねるみたいに前へ出る。 俺もFL5を加速させる。 ブーストが立ち上がる。 450馬力。 一気に速度が乗る。 だが、スイスポは離れない。 「どうっすか!」 「お前そのクルマ、マジで危ねぇな!」 「最高の褒め言葉っす!」鍋田埠頭へ到着する。 コンテナヤード。 停泊中の貨物船。 潮風。 深夜の港の独特の静けさがある。 俺たちは人気のない直線へ入った。 「行くぞ」 「了解っす」 アクセルを踏み込む。 FL5のフロントが僅かに浮く。 一気に加速。 だがバックミラーには、黄色いスイスポが張り付いていた。 「マジかよ……」 以前なら簡単に置いていけた。 だが今は違う。 畔柳の運転技術も、クルマの完成度も、一年前とは別次元だった。 コーナー。 ブレーキング。 立ち上がり。 全部が速い。 「腕上げたな……」 正直、少し驚いていた。
数本流したあと、俺たちは近くのセブンイレブンへ入った。 缶コーヒーを買い、店前へ並ぶ。 春の深夜。 少し冷たい風が吹いていた。 「腕上げたな」 俺が言うと、畔柳は照れ臭そうに笑った。 「班長の指導が良かったからっすよ」 「珍しくいいこと言うな」 「珍しくは余計っす」 正直、上達が早すぎる。 才能もある。 それに何より、コイツはクルマが好きすぎる。 「新入社員の南出さんも、鍋田とか来るんすかね?」 コーヒーを飲みながら畔柳が言う。 「そんなわけないだろ」 「いやでもバイク女子っすよ?」 「いいか」 俺は真顔で言った。 「絶対引き込むなよ」 「え?」 「俺たちはもう手遅れなんだからさ」 その瞬間。 畔柳が少し固まる。 そして、ハッとしたように笑った。 「あー……確かに手遅れっすね」 「だろ?」 普通の人間は、金曜の深夜2時に鍋田で遊ばない。 タイヤ代に給料を溶かさない。 道路の継ぎ目でテンション上がったりしない。 俺たちは、完全にそっち側だった。 「じゃ、続き行くか」 俺は缶コーヒーを飲み干す。 「次、湾岸行くぞ」すると 畔柳がニヤッと笑う。 「刈谷まで勝負っすか?」 「ああ」 俺も笑った。 「刈谷まで勝負だ」 「さすがに勝てないっすよ」 そう言いながらも、畔柳は嬉しそうにクルマへ乗り込む。
二台は再び走り出した。 鍋田交差点を左折。 そのまま湾岸弥富インターへ向かう。 前方にETCゲートの紫色の光が見える。 時刻は深夜2時24分。 交通量は少ない。 最高の時間帯だった。 俺はシフトを落とす。 エンジン回転数が跳ね上がる。 隣には、黄色いスイスポ。 バックミラーへ映る工場夜景。 そして前方には、真っ暗な伊勢湾岸道。 「行くぞ……」 ETCゲートを通過した瞬間。 俺はアクセルを、ブラジルまで踏み込んだ…。
【第2章:封印されたシビック】
4月16日金曜日。時刻は20時を少し回った頃だった。私、蒼井エミリは名古屋市千種区覚王山の自宅マンションのソファーに乱暴に身体を預けながら、思わず声を荒げていた。「なんなのアイツっ!!」静かな部屋に自分の声だけが響く。こんなにイライラしているのは久しぶりだった。原因は分かっている。今年度から赴任してきた新しい上司だ。最初の二日間は特に何もなかった。むしろ普通に話しやすそうな人だと思っていた。しかし先週に入ってから少しずつ違和感を覚え始めた。会議では人の話を最後まで聞かない。現場をよく知らないくせに理想論ばかり押し付けてくる。そして今週に入ってから、その違和感は完全にストレスへ変わっていた。今日も最悪だった。提出した資料を何度も差し戻され、最後には「もっと柔軟に考えられない?」と言われた時、本気でゴミ箱を蹴りそうになった。柔軟じゃないのはそっちだろ、と言い返したかった。でも社会人は面倒だ。笑顔を作って「すみません」と言い、ストレスだけが溜まっていく。
こんな日は普段しないことをしたくなる。気付けば私は牛丼の蓋を開けていた。仕事帰りのいつもの道。金曜日の夜ということもあり、街は歓迎会帰りの会社員で溢れていた。新年度特有の浮ついた空気。酔ったサラリーマンたちが大声で笑いながら歩いている。そんな光景を横目に見ながら、吸い込まれるようにすき家へ入った。私は少しだけ考えた。いつもなら並盛りで十分だ。でも今日は違った。私は半分ヤケクソになりながら、特盛り、3種のチーズ、温玉のボタンを押していた。蓋が開いた牛丼を見て少し笑ってしまう。「絶対こんなの食べきれない…」そう思いながらも箸を動かした。けれど、食べてもイライラは完全には消えなかった。冷凍庫に入っていた雪見だいふくも食べた。やっぱりダメだ。こんな時にすることなんて、アレしかない。
食べ終わった牛丼の容器をそのままにして、ソファーに浅く座る。嫌なことがあった日ほど、ハンドルを握りたくなる。ただ、今日は少し違った。一人で走るには物足りない。誰かと走りたい。そう考えた時、自然と一人の男の顔が浮かんだ。赤いシビックタイプRに乗る、倉田君だ。現在の時刻は20時56分。今頃、弥富の倉庫で勤務中で、お昼休憩をしている頃だろう。私はスマホを取り出し、LINEを開いた。「この後鈴鹿スカイライン行かない?」と送信した。けれど既読はつかない。仕事が忙しいのかな?とSNSを見ながら返信を待つ。15分後にようやく既読がついた。しかし返信は来ない。珍しい。倉田君は割とすぐ返事をするタイプだ。そして5分後、ようやく返信が届いた。「悪い、しばらく行けない」その文章を見た瞬間、私は眉をひそめた。断られた。しかも“しばらく”という言い方。倉田君が私の誘いを断るなんて初めてだった。私はすぐ返信する。「忙しいの?」少し間が空き、返ってきた言葉を見て私は思わず声を出した。「実は免停になった」「えっ!?」私は思わず叫んでしまう。急いで返信を打つ。「どういうこと!?何があったの!?」すると返事はすぐに来た。「2週間前に伊勢湾岸で79キロオーバーで覆面パトカーに検挙された」その文章だけで、しょんぼりしている倉田君の顔が簡単に想像できた。私は思わず苦笑する。いや、笑い事じゃない。79キロオーバーなんて普通にヤバい。でも、倉田君らしいとも思ってしまった。深夜の伊勢湾岸道。空いた直線。気持ちよくなって踏みすぎたんだろう。「大丈夫?」と心配メッセージを送ると返ってきたのは、いかにも倉田くんらしい返信だった。「んな訳ねーだろ」私は思わず吹き出す。「ありゃまー。私もさ、東名阪道で覆面に捕まったことあるから元気出してよ」少しして返事が来る。「へー意外。けど元気でねーわ。じゃ仕事戻るわ」それで会話は終わった。
スマホ画面を見つめながら、私は少し考える。さっきまであんなにイライラしていた上司のことなんて、もうどうでも良くなっていた。むしろ倉田君の方が気になる。”免停”倉田君からシビックを取り上げたら、かなり辛いんじゃないだろうか。彼にとってクルマはただの移動手段じゃない。生活の一部で、生きがいみたいなものだ。それを奪われたら、そりゃ落ち込むでしょ。私は鈴鹿スカイラインへ行く気を完全になくしてしまった。ソファーへ寝転びながら、さっき見てたSNSの続きをスクロールする。すると、ある投稿が目に入った。
”オールフェアレディZミーティング2027開催決定”
私は思わず身体を起こした。オールフェアレディZミーティング。毎年5月5日に富士スピードウェイで開催される、日本最大級のフェアレディZオフ会だ。歴代のフェアレディZが全国から集結する。ダットサンフェアレディ、S30、Z31、Z32、Z33、Z34、そしてRZ34。去年は2000台以上が集まったらしい。私は去年、韓国にいたせいで行けなかった。SNSで流れてくる写真を見ながら、ずっと羨ましいと思っていた。
「倉田君、誘ってみる?」私はそう呟きながらイベントページを開く。何の迷いもなく事前入場券をオンラインで購入した。決済完了。私はすぐLINEを開く。「5月5日に富士でオールフェアレディZミーティングってのがあるけど一緒に行く?どうせヒマでしょ?」少し皮肉を入れて送信した。さすがに仕事中だから返信は来ない。私はスマホを置き、窓の外を見る。遠くには名古屋の街明かりが見えた。翌朝、目を覚ますとLINE通知が来ていた。送り主は倉田君。私は少し笑いながらメッセージを開く。「マジか、俺でいいなら行くけど」その文章を見て、私はすぐ返信した。「じゃあ決まりね!5月5日は夜中の1時に出発するから、それまでに私の家に来てね!」送信したあと、自分で少し笑った。かなり無茶を言っている。でも富士は遠い。渋滞を考えたら、それぐらい早く出る必要がある。
そして、5月5日を迎えた。
【第3章:大型連休の新東名】
「あの人はいつも無茶を言うんだから……」俺は誰もいない近鉄戸田駅のホームで、小さくぼやいていた。時刻は23時45分を回った頃。世間はゴールデンウィークだというのに、駅のホームは驚くほど静かだった。遠くで踏切の警報音が聞こえるだけで、人の気配はほとんどない。5月4日から5日に日付が変わろうとしている深夜。今日は、蒼井さんにに誘われた“オールフェアレディZミーティング2027”へ向かう日だった。だが、その集合時間が異常だった。「5月5日は夜中の1時に出発だから、それまでに私の家来てね!」あのLINEを見た瞬間、正気か?と思った。だが富士スピードウェイまで行くことを考えれば、確かにそれくらい早く出ないと渋滞に巻き込まれる。大型連休の高速道路を舐めると終わる。それは俺もよく分かっていた。ただ問題は、今の俺がクルマを運転できないということだった。”免停”この二文字は想像以上に重かった。愛車のホンダ・シビックタイプR FL5は、自宅アパートの駐車場で静かに眠ったまま。だから今日は珍しく電車移動だった。
23時47分発の名古屋行き普通列車がホームへ滑り込んでくる。名古屋市中川区富永の俺の自宅アパート最寄駅である近鉄戸田駅は急行どころか準急すら停まらない。正直かなり不便だ。隣の蟹江駅ならもっと便利だったのに、と思う。最も、電車なんて滅多に使わないけど。「名古屋市内なのに不便なんだよなぁ……」誰も聞いていない独り言を漏らしながら電車へ乗り込む。車内はガラガラだった。スーツ姿のサラリーマンが一人。酔って寝ている大学生っぽい男が一人。それだけ。窓の外には深夜の名古屋西部の景色が流れていく。いつもなら自分で運転している時間帯だ。なのに今日は電車移動。なんとも言えない敗北感があった。
近鉄名古屋駅へ到着すると、俺は急いで地下鉄東山線のホームへ向かった。正直、名駅は未だによく分からない。名古屋市民なのに構造が全く頭に入っていない。普段クルマ移動しかしないからだ。道ゆく人を避けながら案内板を探し、藤が丘方面のホームへ向かう階段を駆け下りる。その瞬間、ボーーーー……ホヨヨ ホヨヨ ホヨヨ……と独特な発車メロディが聞こえた。「やっべ!」俺は反射的にダッシュする。0時7分発、藤が丘行き普通列車。これを逃したら終わる。本当に終わる。オールフェアレディZミーティングどころではなくなる。滑り込むように車内へ入った瞬間、パララ パララ パララと音が鳴りながらドアが閉まった。「危なっ……」息を切らしながら座席へ座る。久しぶりに地下鉄へ乗ったが、深夜帯特有の空気があった。疲れた顔の人間ばかり。酔って寝ている人。スマホを見続ける人。誰も喋っていない。
東山線は快調に東へ進む。伏見、栄、新栄町、千種、今池、池下そして覚王山。駅へ到着し、地上へ出ると少しだけ空気が違った。名駅周辺より静かで落ち着いている。高級マンションが並ぶ街並み。深夜の覚王山は、不思議と都会っぽさと静けさが混ざっていた。少し歩き、蒼井さんのマンションに到着する。エントランスは高級ホテルみたいに綺麗だった。「すげぇ……」俺の中川区富永のボロアパートとは別世界だ。呼び出しベルを押す。しばらくしてインターホン越しに聞き慣れた声がした。「はーい」その直後、自動ドアが解錠される。エレベーターへ乗り込み、指定された階へ向かう。ドアが開くと、蒼井さんが部屋の前で待っていた。「いらっしゃい。準備してるから適当に座ってて」「お邪魔します……」部屋へ入った瞬間、俺は軽く衝撃を受けた。オシャレだ。とにかくオシャレ。間接照明。観葉植物。統一感のある家具。しかも綺麗。俺の部屋なんて、シビックのパーツと工具で完全に汚部屋化している。ホイールが一本転がってるし、車高調の箱は積んであるし、なぜかインタークーラーのパイピングまで部屋に置いてある。内装のクリップを踏んで悶絶することも。それと比べると、ここはモデルルームみたいだった。「同じ人類の部屋とは思えねぇ……」思わず呟く。「なんか言った?」「いや何も!」
蒼井さんは出発準備を終えると、クルマのキーを手に取った。エレベーターの乗りマンションを出てガレージへと向かう。シャッターを開けると、そこにはセイランブルーの日産 フェアレディZ RZ34が停まっていた。相変わらず綺麗な色だ。深夜の照明に照らされると、青というより金属っぽい光沢がある。俺は助手席へ乗り込む。「うわ、低っ」思わず声が出る。「前見えてるの?」俺が聞くと、蒼井さんは笑った。「運転席側は意外と高いよ。でも社外シートだからクッション入れてる」なるほど、と思う。確かにRZ34は外から見る以上に着座位置が低い。スポーツカーに“乗り込む”感覚が強かった。
春岡インターから名古屋高速2号東山線へ入る。深夜の名古屋高速は大型連休中でも比較的空いていた。高針ジャンクションから名二環。上社ジャンクション。そして名古屋インターから東名高速へ。大型連休とは思えないほど交通量は少ない。だが完全に空いているわけでもない。長距離トラック。キャンピングカー。県外ナンバー。連休独特の空気感がある。
しばらく走っていると、蒼井さんが口を開いた。「免停だって? 大変だったね」「マジ最悪だったわ……」俺はため息混じりに答える。「仕事終わりに後輩と湾岸走ってたら、東海JCT辺りで覆面に止められてさ。79キロオーバーだってさ」「79って……」「80超えてたらもっとヤバかったみたい。ギリ助かった」実際は、もっと出ていた気がする。220キロ近く。深夜の伊勢湾岸道。空いた直線。畔柳の前でカッコつけようと気持ち良くなって踏みすぎた。結果がこの様だ。「でも罰金高かったんでしょ?」蒼井さんが現実的な話をしてくる。「10万。あと講習費用」「うわぁ……」「しかも通勤用にケッタマシーン買った」「ケッタマシーンって久々に聞いた」「キンブルで探したけど無かったから、向かいのドンキで買った。3万もした」職場のある弥富は公共交通機関が弱い。しかも俺は夜勤。バスや電車通勤なんて無理だ。だから自転車を買うしかなかった。なお、ドンキまでの移動は“畔柳タクシー”だった。運賃はモンスターエナジー1本。超良心価格で罰金貧乏の俺には大助かりだ。「実はシビックのタービン変えて、600馬力目指そうと思ってたんだけどさ」「うん」「金なくなって全部流れた」「ありゃま」俺は助手席でしょんぼりする。すると蒼井さんがニヤッと笑った。「また稼がなきゃね、免停班長さん」「ちょっ、なんで知ってんの!? 後輩からもそう呼ばれてんだよ!」蒼井さんは楽しそうに笑う。「ふふふ、そんな気がしてた」「免停班長のけったましーんカッコいいっす」と冷やかしてきた畔柳のニヤケ顔が思い浮かぶ。
豊田ジャンクションを通過し、伊勢湾岸自動車道へ入る。すぐに新東名へ入る。岡崎サービスエリアを通過し二車線区間が続く。交通量も徐々に増えてきた。大型連休の高速道路はカオスだ。だが深夜帯は、比較的まだマシだった。それでも右車線を塞ぐ日産セレナや、フラフラ走るタイムズのトヨタ・アクアなど、“大型連休名物”はちゃんと存在している。平均速度90キロ前後。浜松いなさJCTを越えると三車線区間へ変わる。制限速度120キロ。だが前方には90キロで右車線を走り続ける習志野ナンバーのホンダ フリードがいた。「うわぁ……」俺が呟く。蒼井さんは冷静だった。左車線へ移動。一気に加速。VR30DDTTの排気音がトンネルへ響く。背中を押されるようなFR特有の加速感。シビックとは違う。FFのシビックは“前へ引っ張られる”感じだが、RZ34は後ろから押し出される感覚が強い。「やっぱZ速ぇな……」「でしょ?」誇らしげな蒼井さん。浜松サービスエリア手前のストレートでフル加速する。蒼井さんは、時よりクリアになるタイミングを見計らいVR30DDTTを楽しんでる。
交通量は多い。だが流れは悪くない。走っているクルマのほとんどが首都圏ナンバーだった。品川、多摩、川越、横浜、習志野、柏。そんな中で、普段は敵対する三河や尾張小牧ナンバーを見ると妙な安心感がある。「私、大型連休の高速道路苦手なんだ」「あー分かる。サンデードライバーの動き読めないよな」「そうそう」それでも蒼井さんの運転は安定していた。車線変更、加速、ブレーキング、全部が滑らかだ。
やがて駿河湾沼津サービスエリアへ到着する。駐車場には県外ナンバーが大量に並んでいた。Zもちらほらいる。「もう始まってる感あるな」「だね」トイレを済ませ、ミニストップで朝飯とコーヒーを買う。まだまだ深夜時間。普段元気な時間帯だか、なぜか少し眠い。でも妙にテンションは高かった。
再びZへ乗り込み出発する。御殿場JCTを右へ行く。そのまま新御殿場インターで降りる。山中湖方面へ進み、次のランプを降り右折する。突き当たりを右折して、坂道を下る。街灯も少ない。本当にこっちで合ってるのか不安になる。すると前方に富士スピードウェイの明かりが見え始めた。「おっ……」二人のテンションが一気に上がった。既にフェアレディZが並んでいる。S30、Z32、Z33、Z34、そしてRZ34。全国から集まったZたち。これから始まるオールフェアレディZミーティング2027。俺たちは、その光景に胸を高鳴らせていた。
【第4章:オールフェアレディZミーティング】
富士スピードウェイ西ゲートへ到着した時、時刻はまだ午前3時30分だった。空は真っ暗で、山の空気は名古屋よりずっと冷たい。それでも周囲には既にフェアレディZが並んでいた。S30、Z31、Z32、Z33、Z34、そしてRZ34。年代も色も仕様もバラバラなのに、不思議と統一感がある。ここへ来る途中の高速道路でもZは走っていたけど、こうして一箇所へ集まると迫力がまるで違った。「すげぇな」助手席で倉田君が小さく呟く。私も同じことを思っていた。深夜3時半だというのに、会場周辺は既に熱気がある。マフラー音。トランクを開けて談笑する人たち。スマホで撮影している人。折り畳み椅子まで用意して完全待機モードの人。みんな明らかに慣れている。
「ゲートは5時半に開くらしいけど、昨年も一昨年も5時に開いてるから、多分今年も5時だと思う」私は事前に調べていた情報を倉田君に話す。オールフェアレディZミーティングへ行くのは初めてだったが、SNSやブログ、YouTubeなどでかなり情報収集していた。何時に並ぶべきか、どこへ集合するのか、どの時間帯が混むのか、全部チェック済みだ。「みんな早すぎだろ……」「たぶん日付が変わる前からいる人もいると思う」「気合い入りすぎだろ」そう言いながらも、倉田君はどこか嬉しそうだった。周囲を見れば、ほとんどがフェアレディZだ。こんな光景は普通じゃ見られない。私たちは列へ並び、エンジンを止めた。すると一気に静かになる。いや、正確には“完全な静寂”ではない。遠くでアイドリングしているL型エンジンの独特な音。時々聞こえる空ぶかし。誰かの笑い声。山の風の音。深夜の富士スピードウェイは、不思議な空気だった。特にすることもなく、私はスマホを開いた。SNSを見ると、既に「#オールフェアレディZミーティング2027」の投稿が大量に流れている。『西ゲート到着!』『今年も来ました!』『既に並んでます』そんな投稿ばかりだった。隣を見ると、倉田君もスマホを見ていた。会話はない。でも気まずくはない。むしろ心地良かった。好きなクルマに囲まれながら、静かに時間が過ぎていく。そんな空間だった。時々、周囲のZを眺める。私たちの前にはシルバーのZ32。後ろには白いZ34ニスモ。さらにその後ろには、ワイドフェンダー化されたオレンジ色のS30。どのクルマも個性が強い。中でも初音ミクのラッピングが施されたRZ34nismoが一際目立っていた。「見てるだけで飽きないな……」倉田君が言う。「分かる」「てかRZ34結構いるんだな」「思ったより多いよね」
そんな話をしながら時間を潰していく。途中、コンビニで買っておいたコーヒーを飲む。深夜から早朝へ変わる独特の空気。山の向こうが少しずつ明るくなっていく。
やがて時刻は4時50分。突然、西ゲートに明かりが灯った。「あっ」その瞬間、周囲の空気が変わる。エンジン始動音が次々と響き始めた。ブォン。ヴォォン。低い直6サウンドやサクラムの甲高いV6サウンド。様々な時代のZが一斉に目覚める。その光景だけで鳥肌が立つ。私もスタートボタンを押す。VR30DDTTが低く唸る。隣で倉田君が少しテンションを上げていた。「マジで始まるんだな……」「なんか緊張してきた」5時。ゲート信号が青へ変わった。その瞬間、長いZの列がゆっくりと動き始める。まるで巨大なパレードみたいだった。深夜から待機していた大量のフェアレディZが、少しずつ富士スピードウェイへ吸い込まれていく。「すげぇ……」倉田君が何度も同じことを呟いている。でも気持ちは分かる。私もずっと感動していた。
ゲート料金の受け渡し口が左側に見えてきた。私はスマホでJAF会員画面を表示し、2200円と一緒に倉田君へ渡す。すると彼は少し困った顔をした。「俺の分は俺が出すよ」「どうせお金ないんでしょ?」「いやまぁ……」「それに今日は私が誘ったんだから」半分強引に押し付ける。倉田君は少し申し訳なさそうにしながら、「すんません……」と小さく呟いていた。料金を支払い、スタッフから富士スピードウェイの案内を受け取る。そのまま前を走るシルバーのZ32について進んでいく。普段テレビや動画でしか見ない富士スピードウェイの敷地内を、自分のZで走っている。それだけでテンションが上がる。やがてモビリタ前で停止。ここで開場時間の6時まで待機するらしい。周囲には既に大量のZ。どこを見てもZ。歴代Zが並ぶ光景は異様だった。途中、スタッフに購入済みチケットのQRコードを提示して受付を済ませる。渡された袋の中にはパンフレット、ステッカー、キーホルダー、そしてビンゴカードが入っていた。「ビンゴあるんだ」「結構豪華らしいよ」「マジ?」倉田君の目が少し輝く。その辺り、分かりやすい。やがて6時。前方のZ32がゆっくり動き出した。私たちも続いて進む。スタッフの案内に従い、指定エリアへ駐車する。エンジンを止め、ドアを開ける。外へ出た瞬間、思わず息を呑んだ。「うわ……」会場が広い。そして、その向こう。背景には、雲一つない巨大な富士山がそびえ立っていた。朝日に照らされた残雪期の富士山。その手前には、数え切れないほどのフェアレディZ。景色として完成されすぎていた。「これヤバいな……」倉田君も完全に見入っている。続々と入場してくるZたち。フルオリジナルのS30。超綺麗なZ32。ド派手なエアロのZ33。サーキット仕様のZ34。それぞれオーナーの色が出ている。見ているだけで楽しい。倉田君もあちこち歩き回っていた。「このホイールかっけぇ……」「このワイドフェンダーやば」「L型めっちゃ綺麗じゃん」完全に少年みたいな顔をしている。免停で落ち込んでいた時とは別人だった。9時になると、ステージで開会式が始まった。MCの挨拶。主催者の挨拶。そして歓声。会場全体がイベントモードへ切り替わっていく。その後はトークショーを見たり、出店ブースを回ったりした。有名ショップのデモカー。限定グッズ。マフラー展示。サスペンションメーカー。見始めると止まらない。「やば、これ欲しい……」「倉田君それ以上散財したら死ぬでしょ」「確かに」そんなやり取りをしながら歩く。
お昼はキッチンカーで買った。富士宮やきそば。唐揚げ。ホットドッグ。イベント飯特有の“ちょっと高いけど美味そう”な感じ。外で食べると余計に美味しく感じる。
途中、コース体験走行も見学した。フェアレディZたちが富士スピードウェイを走る姿は、やっぱりカッコいい。ストレートを駆け抜けるZ。エンジンサウンド。観客席から聞こえる歓声。倉田君はかなり真剣に見ていた。「走りてぇ……」その一言に、免停中の悲しさが全部詰まっていた。私は少し笑いながら、受付時にもらった袋を開く。中には500円券が入っていた。私はそれを倉田君へ渡す。「はい」「え?」「罰金貧乏なんでしょ?」「いや、子供扱いされてない?」「されてる」「否定しろよ!」そんなやり取りが妙に楽しかった。その後、SNSで繋がっていたフォロワーさんたちとも交流した。初対面だから最初は緊張した。でも、クルマ好き同士は話し始めると早い。「いつも見てます!」「RZ34めっちゃ綺麗ですね!」「名古屋から来たんですか?」気付けば普通に盛り上がっていた。写真を撮ったり、カスタムの話をしたり、SNSの裏話をしたり。ネットだけだった繋がりが現実になる感覚は不思議だった。そして午後。表彰式が始まる。さらに最後はビンゴ大会。会場全体が盛り上がる。だが。「全然当たらない」リーチすら来ない。完全撃沈だった。周囲では豪華景品を当てて盛り上がっている人たちがいる。羨ましい。でも、それすら楽しかった。気付けば時刻は15時を過ぎていた。長かったオールフェアレディZミーティング2027も、ついに終了。帰るZたちが少しずつ動き始める。イベントの終わり特有の寂しさが、会場全体に漂っていた
【第5章:親睦の中で】
あれから時間が経ち、気がつけば16時を回っていた。さっきまであれだけ賑わっていた富士スピードウェイも、少しずつ撤収ムードになっている。帰り支度を始める人、最後に愛車を撮影する人、まだ話し込んでいる人。それぞれが名残惜しそうに時間を過ごしていた。俺はフェアレディZ RZ34へ戻る。すると蒼井さんは既に帰宅準備を終えていた。スマホをホルダーへ固定し、飲みかけだったペットボトルを片付け、ナビをセットしている。「ビンゴ当たった?」助手席へ乗り込みながら聞くと、蒼井さんはため息混じりに笑った。「リーチ1つもなかった」どうやら蒼井さんは、ビンゴ運が壊滅的らしい。そういう俺も、昔から抽選とかクジ系は全く当たらない。会場で盛り上がっていた人たちが羨ましかった。俺たちは富士スピードウェイを後にする。西ゲートを抜け、来た道を戻っていく。周囲は完全にフェアレディZだらけだった。前も後ろもZ。信号待ちでもZ。高速へ吸い込まれていくZ。こんな光景、多分一生に何度も見られるものじゃない。新御殿場インターから新東名へ乗る。ここから名古屋まで長い帰り道だ。しかし今日はゴールデンウィーク最終日。Uターンラッシュのピークは過ぎたみたいだが、交通量が異常に多い。とはいえ、上り方面よりは多少マシらしい。それでも流れはかなり悪かった。100km/hすら維持できない。「せっかくのZなのに全然踏めないね」蒼井さんがぼやく。「1000馬力のGT-Rでも今日は無理だろ」そう返しながら周囲を見る。大型ミニバン。県外ナンバー。レンタカー。大型連休の高速道路特有のカオス感があった。蒼井さん自慢のフェアレディZも、サンデードライバーの前では無力だった。しばらく走ると、さらに流れが悪くなる。ハザードランプが延々と続いている。「なんだ?」前方を見ると事故だった。黒いアルファードと白いNBOXが路肩へ止まっている。フロント周辺が潰れており、警察車両と救急車も来ていた。「うわぁ……」と蒼井さん。俺は「連休名物だな」と眺めてた。大型連休は慣れていないドライバーが多い。普段高速へ乗らない人、無理な車線変更をする人、長距離運転で集中力が切れてる人。事故が起きる条件が全部揃っている。事故現場を抜けても流れは悪かった。夕方と夜の境目になる頃、俺たちは浜松サービスエリアへ入った。「はぁー疲れるね。夜ごはん食べてく?」蒼井さんが聞く。「ああ」正直かなり腹が減っていた。サービスエリアは想像以上に混雑していた。駐車場もほぼ満車。建物の中へ入ると人だらけだった。家族連れ、カップル、旅行帰りの若者。みんな疲れ切った顔をしている。「やば……席空いてる?」「全然ないね」すると蒼井さんが言う。「じゃあ、倉田君は席探してて。私買ってくるから」「悪いな」俺は空きそうな席を探し回る。ようやく、食べ終わりそうな家族連れを見つけ、タイミングを見計らって席を確保した。しばらくして蒼井さんがラーメンと浜松餃子を持ってくる。「はいこれね! 文句はなしだから」「晩飯まで奢られて、俺ってダッセーな……」「ほんっと奢られ上手よね」「いただきまーす」ラーメンを一口啜る。めちゃくちゃ美味かった。疲れた体に塩気が染みる。「うまっ」「現金なやつ」蒼井さんに罵られようが、浜松餃子も美味かった。円形に並べられた餃子の真ん中にもやし。こういうご当地感ある飯はテンションが上がる。食事を終えた俺たちは、お土産コーナーを少し見て回る。うなぎパイ、静岡茶、浜松餃子せんべい。どこも人だらけだった。カネのない俺はウィンドウショッピングに終わった。クルマへ戻る頃には、外は完全に夜になっていた。だが問題はここからだった。”この先20km事故渋滞”電光掲示板を見て、俺たちは同時にため息をつく。「マジかぁ……」「覚悟決めるしかないね」そして俺たちは渋滞へ突撃した。
“魔の愛知区間”。クルマ好き界隈でそう呼ばれることがある新東名の愛知区間。確かに静岡県を走っていた時は何ともなかった。だが愛知県へ入った瞬間、猛烈な睡魔が襲ってくる。片側2車線。単調な景色。長い直線。低速渋滞。眠くならない方がおかしい。私はグミとブラックコーヒーを片手に睡魔と戦っていた。だが渋滞はひどい。完全停止。少し進む。また停止。30キロすら出ない。「これ地獄だな……」倉田君が呟く。「ほんと無理……」それでも少しずつ進み、約1時間30分後、ようやく20kmの渋滞を突破した。「抜けたぁ……」「長かった……」二人同時に脱力する。その後も混雑する新東名を西へ走り続ける。やがて豊田ジャンクションが見えてきた。私は東名方面ではなく、伊勢湾岸道方面へステアリングを切る。「道間違えた?」助手席の倉田君が聞く。「家まで送って欲しいんでしょ?」「あぁ、悪いな」その直後、私は顔をしかめた。ブラックコーヒーを飲みすぎたせいで限界が近い。「その前に刈谷寄っていい? コーヒー飲み過ぎてトイレ行きたい」「行こう行こう」私は刈谷ハイウェイオアシスへ入る。だが当然、駐車場は激混みだった。グルグル回ってようやく一台分の空きを見つける。「やっと停めれた……!」私は急いで建物へ向かった。豪華なトイレだったけど、そんなものを見てる余裕はない。一直線に個室へ飛び込む。幸い並んではいなかった。「危なかった……」戻ると倉田君が笑っていた。「そんなギリギリだったのかよ」「ブラックコーヒー舐めてた」再出発すると、また名港東大橋付近で渋滞していた。「もう嫌!」私は半ばヤケになり、名港中央インターで伊勢湾岸道を降りる。西稲永交差点を左折し、そのまま国道1号線へ入った。深夜の国道1号も交通量は多い。かの里付近まで来たところで私は聞く。「家どこ?」倉田君の案内に従い、中川区のアパート前へ到着する。赤いシビックタイプRが静かに停まっていた。その後ろにはシルバーの自転車。「あれが例のケッタ?」「そう。3万円のドンキのケッタマシーン」「へぇー速そうじゃん」「まあ、もうすぐ免停解除だからお役御免だけどな」そう言う倉田君の顔は、少し嬉しそうだった。「免停終わったら鈴スカ行くから、リハビリしといてよね」「了解」倉田君はクルマを降りる前にこちらを見る。「今日はありがとう。楽しかった」「こちらこそ。また走ろうね」助手席のドアが閉まる。私は一人になった車内で小さく息を吐いた。そして再び走り出す。富田インターから名二環へ入り、名古屋西ジャンクションから5号万場線へ。すると、さっきまでの渋滞が嘘みたいに交通量が少なかった。新東名や伊勢湾岸道とは別世界だった。私はようやくアクセルを踏み込む。渋滞していた高速では息を潜めていたVR30DDTTが高らかに吠える。押し出されるような加速感。今日一日ずっと我慢していたものを、全部解放するみたいだった。渋滞、サンデードライバー、疲労感。全部吹き飛んでいく。やがて2号東山線へ入り、吹上東インターで名古屋高速を降りる。見慣れた覚王山の街並み。ガレージへフェアレディZを停める。「今日は1日ありがとね、Zくん」私はそう呟き、シャッターを閉めた。帰宅後、私は疲れ果てていた。メイクだけ落とし、そのままソファへ倒れ込む。スマホを見る余裕すらない。そのまま意識を失うように寝落ちした。
翌日。ゴールデンウィークが明け、世間は今日から仕事らしいけど、私は念のため有給を確保していた。昼前、私はフェアレディZへ乗り込みガソリンスタンドへ向かう。その後、D-Wash 名古屋広川町へ到着した。高速道路で大量の虫が付着していて、フロント周りが悲惨なことになっている。「うわぁ……」ここは純水が使い放題の洗車場で、私のお気に入りだった。泡をかけ、スポンジで丁寧に洗い、純水で流し、拭き上げる。綺麗になったセイランブルーを見ると気分が落ち着く。洗車後、私は熱田区一番にあるラ・オハナへ向かった。ロコモコを食べながら昨日撮った写真を見返す。富士山。大量のフェアレディZ。そして楽しそうに笑う倉田君。全部楽しかった。覚王山の自宅へ戻り、明日からの仕事の準備をする。また頑張ろう。また倉田君と走るために。そう思っていたのに。夜になると、私は我慢できなくなっていた。気付けばフェアレディZへ乗り込み、都心環状線を一周していた。深夜の名古屋。ビル群の灯り。防音壁に反響するVR30DDTTのエンジンサウンド。やっぱり私は、この時間と、このクルマが好きだった。
なお、その結果。翌朝、大寝坊したのはここだけの話である。
(完)


