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第1話はコチラ

【第一章:私の日常に割り込む変異】
私は毎朝6時に目を覚ます。
スマホのアラームが鳴る少し前に目が開くのが、私の日常の始まりだ。
掛け布団を胸元でまとめて、伸びをひとつ。
ベッドの脇の小さな棚に置かれた水を一口飲む。
洗面所の鏡に映る自分と、眠たそうな目で目が合う。
歯を磨き、顔を洗い、鏡に向かってそっと両手で頬を包む。
「大丈夫、大丈夫」と声には出さないけれど、いつものルーティンだ。
スキンケアを終えたら、ドレッサーの横に吊るしたZのキーに目をやる。
青い革のキーホルダーが、朝の光に少しだけ輝いている。
今日は触れない。今日は走らない。
そう思いながらも、視線はいつもそこに吸い寄せられる。
最近購入したフローレスフィットを手に取りメイクを整えて、髪をリファのアイロンに通す。
オーガニックのグラノーラに豆乳をかけて、コーヒーをドリップする。
その間に、リビングの床に落ちた埃をロボット掃除機に任せる。
家の中は、私が誰にも見せない戦場だ。
7時半、覚王山の自宅マンションを出る。
エントランスに流れるジャズピアノを背中に、階段を降りる。
地下鉄覚王山駅の改札に近づくたびに、あのキーをポケットに忍ばせてくれば良かったか、と一瞬思う。
地下鉄は、あまり好きじゃない。
私を運ぶだけの箱の中で、他人の会話や靴音が私を擦り減らす。
でも職場のある名駅まではこれが一番早い。
効率の前には、私の小さな我慢なんて大したことじゃない。
名駅に着くと、エスカレーターの途中でふとスマホを開く。
無意識にInstagramのアイコンに指が伸びるが、Zのアカウントを開きかけて閉じた。
ここで見るものじゃない。
ここは、私が『走る私』を封じ込める場所だから。
オフィスのビルのロビーに入ると、いつもの受付嬢が会釈する。
私も小さく頷き返す。
何年も通い続けているのに、毎朝の挨拶はどこかよそよそしい。
PCを立ち上げて、デスクの上に整頓された書類を確認する。
メールの返信をしながら、上司の顔色をうかがい、部下の報告を淡々と処理する。
自分でも思う。
誰から見ても、私の日常はきちんと形が整っている。
それでも――。
その日の帰り際、私の頭の中に小さなノイズが走った。
「社長が面談したいと言っています。」
後輩が戸惑った顔で私に告げた。
私の返事は、あまりに自然で自分でも驚いた。
後日、私は倉田くんを自宅に招いた。
【第二章:ドンガラの覚王山】
俺は、蒼井さんの自宅に招かれたことに心底驚いていた。
正直、あの人が俺なんかを呼ぶなんて思いもしなかった。
LINEに送られてきた住所の最後の文字を見たとき、スマホを落としかけた。
“覚王山”。
テレビや雑誌でしか見ない、いわゆる名古屋でも一二を争う高級住宅街だ。
俺が住む中川区富永とは、同じ名古屋市でも空気が違う。
田んぼや畑の隙間を縫って走る普段の景色とは、何もかもが違いすぎる。
蒼井さんとはあれからよく走りに行った。
冬になると鈴鹿スカイラインは冬季通行止めになるので、三河エリアの峠や浜松市のオレンジロードまで遠征にも行った。
走りに行った夜毎、募る思いに俺は胸を熱くしていた。
約束の当日、俺はいつも以上に念入りにシビックを洗車した。
赤いボディに水滴が残らないように拭き上げるたび、
「場違いだな……」と小さく笑ってしまった。
それでも、せめてクルマだけは胸を張れるようにしておきたかった。
ナビをセットして、エンジンを始動する。
吐き出される低い排気音が、いつもより硬く響く気がした。
一般道を繋いで覚王山へ向かう。
今池を抜けると、街並みが急に変わるのが分かる。
古びた看板の中華屋や中古カードショップが、
カフェの白いテラスや、整然としたマンションに飲み込まれていく。
道を走る車も違う。
黒光りする外車と、ピカピカのSUVが細い坂道をすれ違っていく。
シビックのVTECターボが肩身を狭くしているみたいだ。
送られた住所に近づくと、俺の心臓はなぜか速くなった。
ナビの画面が「目的地に到着しました」と冷たく告げる。
目の前に現れたのは、コンクリート打ちっぱなしの、意味がわからないくらい洒落たマンションだった。
エントランスの前にシビックを停めると、管理人みたいなスーツ姿の男がチラリと俺を見て一礼する。
「どこに止めればいいですか?」と尋ねると、慣れた調子で「お客様用駐車場へどうぞ」と案内された。
そこですでに胃が縮んだ。
ドアを閉めて深呼吸をひとつ。
心の中で「大丈夫、大丈夫」と呟くが、全然大丈夫じゃない。
ふと思う。
俺と蒼井さんは、本来なら交わることのないはずの人種だ。
だがクルマという共通のアイテムが俺たちの糸を交差させたのだろう。
インターホンのパネルに指を乗せる。
『316』と押してみる。
「はーい」という声が機械越しに響くと、すぐに自動扉が開いた。
エレベーターに乗るまでの短い廊下が無駄に広い。
間接照明とアロマの香りが鼻をくすぐる。
俺の家は灯りをつけても豆電球みたいなのに。
3階でエレベーターの扉が開くと、そこに蒼井さんがいた。
いつものTシャツ姿の俺とは違って、落ち着いた色のワンピースに身を纏っていて、
「クルマを走らせる人」じゃなく、「都会で生きる人」そのものだった。
「来てくれてありがとう。こっちこっち。」
先に立って歩く蒼井さんの背中を、俺は黙って追いかけるしかなかった。
マンションの廊下すら、まるで美術館の回廊みたいだった。
「お邪魔します。」
ドアをくぐった瞬間、息を飲んだ。
家具が、ない。
部屋が、空っぽだ。
白い壁、何もない床。
エアコンの下に小さな段ボールがふたつあるだけ。
俺は玄関に立ち尽くしたまま声が出なかった。
振り返った蒼井さんは、まるで打ち明け話をするみたいに笑った。
「実は私、海外に引っ越すことになったの。」
頭が真っ白になった。
あの人が、海外?
仕事の都合らしい。
新しい韓国事業の統括責任者に社長から直接指名されたという。
そう話す蒼井さんの顔は、どこか遠くを見ているようで、俺を見ていない気がした。
渡航は来週の土曜日。
愛車のZも、一緒に韓国へ持ち込むらしい。
俺は乾いた喉を紙コップのお茶で潤したが、味なんて分からなかった。
結局、何を話したのか覚えていない。
クルマのこと、タイヤのこと。
蒼井さんはあまり多くを語らなかったし、俺も何を聞いていいか分からなかった。
部屋を出るとき、空っぽのリビングに自分だけが取り残されたみたいな気持ちになった。
マンションを出て、エントランスを抜けて、駐車場に戻って赤いシビックを見たとき、
俺は思った。
――俺とこの人は、最初から平行線だったんだな。
エンジンをかけると、いつもの爆音が虚しく響いた。
それでも、アクセルを踏み込む以外に
俺には何もなかった。
【第三章:崩れたリズム】
次の日から、俺の中の何かが完全に狂った。
朝、目覚ましが鳴っても体が動かない。
二度寝して、ギリギリの時間に起きて、洗顔をしている間にシビックのエンジン音を思い出す。
お湯を沸かしてカップラーメンを作ろうとするが、沸かしている間にスマホの画面に蒼井さんのZの写真がよぎる。
箸を持ったまま、湯気だけが立っていて、ラーメンはのびきって味がしない。
着替えて玄関を出るとき、「いつも通り」のはずのジャケットの袖が、今日はどこか締めつけてくる気がした。
駐車場でシビックのドアを開ける。
いつもなら息を吸い込むように座席に沈み、プッシュスタートを押せば胸が高鳴るのに、今日はなぜか指先が汗ばんでいた。
エンジンは何事もなかったように吠える。
だけど俺の心臓は、逆に音を失っていた。
弥富の倉庫へ向かう途中の交差点。
右折のタイミングを見計らって、発進したはずが、気がついたときには交差点のど真ん中でエンストしていた。
後ろからクラクションが鳴り響く。
思わず目を伏せて、ハンドルを握りしめる。
ハイビームであおられ、心の奥で何かがくすぶった。
信号が青に変わって、ようやくアクセルを踏む。
でも、その先の赤信号を見落とした。
フロントガラスに突っ込んでくる対向車のヘッドライトが、一瞬だけ俺を現実に引き戻した。
(……危なかった……)
頭の奥が、じんじんと熱い。
ブレーキを踏む足が微かに震えている。
弥富の倉庫に着いても、リズムは戻らない。
フォークリフトに乗っているときも、いつもなら当たり前の操作が、今日は何かがズレていた。
パレットを積み直そうとして、油断した瞬間に荷崩れを起こした。
段ボールが大きな音を立てて崩れ、その後の静寂を包むかのようにホイストクレーンから発せられるカチューシャが響き渡る。
ふと周りを見渡すと、同僚たちが「大丈夫か!」と駆け寄ってくる。
(何やってんだ、俺……)
深呼吸をしても、胸に引っかかるものが取れない。
次は在庫管理の仕事に入った。
QRリーダーを片手に、棚のバーコードを読み取る。
が、読み取った数と実際の在庫が合わない。
何度やっても合わない。
機械が悪いのか、自分が悪いのか。
結局、主任に呼ばれて説明をする羽目になる。
昼休み。
休憩室のいつもの角の席に腰を下ろす。
缶コーヒーをテーブルに置き、
スマホでインスタを開いては閉じる。
また開く。また閉じる。
(……何してんだ、俺……)
気づけば、缶コーヒーは半分も減っていなかった。
そのとき、後輩の畔柳が俺の向かいに座った。
コンビニの袋からパンを取り出しながら、
俺の顔をじっと見ている。
「倉田先輩、失恋でもしたんすか?」
何気ない一言。
冗談半分のはずなのに、
俺の心に鋭く刺さった。
「は……? 何言ってんだ、お前……」
そう言った瞬間、手に持った缶コーヒーが
喉を通らず、むせ返った。
畔柳が「マジだったんすか!?」と笑っているが、
笑い返す余裕なんてなかった。
(失恋……なのか?)
自分でも分からない。
ただ、何かがすっぽり抜け落ちたみたいで、それがなんだったのかは、蒼井さんのZの青いリアビューを思い出すたびに分かる気がした。
リズムが崩れたままの俺は、その日の仕事を終えて、何も言わずにシビックのドアを閉めた。
エンジンを始動させると、エンジンの音だけが俺の乱れた心拍を打ち消すように響いていた。
【第四章:青と赤のラストラン】
蒼井エミリが韓国へ引っ越す土曜日。
季節外れの肌寒さが深夜の空気に滲んでいた。
俺は昨日、最後のわがままだと思って、ダメ元でLINEを送っていた。
「草津まで、一緒に走りませんか」
既読がついてから1日以上も返事がなかった。
既に諦めかけていたその時、短く「いいよ」という文字が届いた。
(渋々だろうが、許してくれた──)
それだけで胸が少しだけ熱くなる。
集合場所は午前0時、大山田パーキング。
俺は節約のために下道を選んだ。国道1号線を西へ。
長島インターから東名阪に乗る。
エンジン音だけが車内に響く。
さっきまで家でスマホを握りしめていた自分が嘘みたいに思えた。
案の定、23時には到着していた。
いつも通りだ。約束の1時間前に着く俺の癖。
パーキングの照明がシビックのボンネットに滲む。
コンビニの光だけが煌々と夜に浮いている。
(何して時間潰そう……)
財布を覗く。100円玉が3枚。
缶コーヒーを買うにも躊躇する額だ。
だから俺はローソンに入り、無意味にアイスのコーナーを眺めたり、雑誌をめくっては戻したりした。
何も買えないのに、少しでも時間が早く過ぎろと願いながら。
レジの前を何度も素通りし、トイレで鏡を見て髪を整える。
だけど結局、鏡の中の自分は頼りなく笑うしかなかった。
23時55分。
寒さが頬を叩く頃、低く響くマフラー音が耳に届いた。
駐車場の端から滑り込むように現れたのは、あのセイランブルーのフェアレディZだった。
ヘッドライトの光の奥で、彼女が小さく手を上げた。
車を降りた蒼井さんが、いつもの落ち着いた表情で近づいてくる。
「今日は来てくれてありがとう。」
短い言葉に、いつもの棘がなくて少し戸惑った。
渋々のはずなのに、ちゃんと礼を言ってくれる。
ツンデレな蒼井さんがかわいく、それだけで、妙に胸が詰まった。
「……いえ、こっちこそ……」
言葉が詰まる俺を見て、蒼井さんが不意に笑った。
ツンとした目元が少し和らいで、だけど俺には、それが逆に遠く感じた。
「コーヒー飲まない?」
不意にそう言われて、言葉を失った。
「いつも倉田くんに奢ってもらってばかりだから、今日は私が出すよ」
(最後の最後で奢られるのか、俺……)
ちょっと情けなかったが、有難さが勝った。
何せ、財布の中は空っぽだ。
自販機の前で蒼井さんが先に立つ。
俺は何を選ぶか悩んだ。
缶コーヒーなんて何でもいいはずなのに、自分にとっては一度きりの“最後の一杯”だ。
ふと目に入ったタリーズのブラック。
蒼井さんがいつも飲んでいた。
今まで手を出したことがなかったが、思わず指が伸びた。
(……同じにしてみよう)
「これにするよ」
缶を受け取り、プシュッと開ける。
蒼井さんも同じタリーズのブラックを持っていた。
並んでベンチに腰掛け、缶を持った手が僅かに触れた。
蒼井さんは遠くの道路をぼんやり見つめていた。
何を考えているのかは、分からない。
話したいことは山ほどあった。
だが、どの言葉も声にならなかった。
「……そろそろ行くね」
空気を割るように蒼井さんが言った。
俺は小さく頷いて、缶をゴミ箱に投げ入れる。
Zのドアが閉まる音。
俺もシビックに乗り込み、ブースト計がわずかに震えるのを見つめた。
彼女の青いテールランプが、真夜中の道へと滑り出す。
俺も負けじとアクセルを踏み込んだ。
四日市ジャンクション。
赤と青が新名神へと吸い込まれていく。
菰野インターで、御在所ロープウェイの光が、山の稜線に沿って並んでいた。
あの下に、俺たちが出会った鈴鹿スカイラインがある。
気づけば、あれからもうすぐ1年だ。
トンネルの中でZのマフラー音が反響する。
俺は2速に落として、シビックの咆哮を響かせる。
鈴鹿トンネルの手前、3車線に広がった道を青と赤が並走する。
俺はギアを上げ、Zの前に躍り出た。
“今日は俺が先導する”
何の約束もしていないけれど、心がそう叫んでいた。
蒼井さんとは鈴鹿スカイライン、鈴鹿峠、鈴鹿トンネルと走ってきたが、一番有名な鈴鹿サーキットは走れていない。
思えばどれも鈴鹿市外だ。
土山サービスエリアを過ぎたところで、小学生の頃、よく父の運転で神戸に行ったことを思い出す。
この先、速度自動取締装置があったはずだ。
俺はギアを下げてアクセルを抜く。
蒼井さんも追従すると思いきやZは減速せず、むしろ俺を追い越し、前へ出る
(怖くないのか……いや、もう日本から出国するから……)
俺は恐る恐る震える足でアクセルを踏み直した。
置いていかれたくなかった。ただ、それだけだった。
しばらく走っても、レーダー探知機の警告音は鳴らなかった。
昨今、移動オービスの普及によって固定式オービスが撤去された話を思い出した。
蒼井さんの運転するフェアレディZと共に走る。
速度も言葉もなく、ただ並んで走る。
なのに、互いのエンジン音が言葉の代わりとなり自然とコミュニケーションが取れている。
草津田上インターの標識が見えたとき、出口を確認するつもりが、右コーナーの陰に隠れていて、気づいたときにはもう遅かった。
ウインカーを出す暇もなく、通過してしまった。
(……仕方ないな)
俺は前を走るZにパッシングを送った。
“ここでお別れだ”
青と赤のランプが、糸のように緩やかに交わり、そして違う未来へと分かれる。
【第五章:青いZの残像】
草津ジャンクション。
青いZのリアランプが分岐の向こうに消えていった。
直進するZは京都・大阪方面、右へ逸れる俺は栗東方面へ。
この数秒の分かれ道が、俺にとっては
ひとつの物語の幕引きのように感じられた。
アクセルを少し踏み増すと、シビックのVTECが息を吹き返す。
だが、エンジン音が静かすぎて、
さっきまでZと交わしていた無言の会話が嘘のように思えた。
(まだ……まだ走っていたい)
胸の奥でそう呟く声がした。
高速料金がどうとか、小銭がどうとか、そんなものはとっくに頭から消えていた。
蒼井さんのフェアレディZが同じ名神をどこかで走っている──それだけで、俺はハンドルを握り直した。
菩提寺パーキング。
標識が近づいてくる。
俺はパーキングに入る。
ゆっくりと駐車スペースにシビックを滑り込ませる。
窓を開けると、夜気の冷たさが一気に入り込んだ。
運転席に背中を預けたままスマホを取り出す。
ナビ画面からBluetoothのアイコンをタップする。
普段は走る時に音楽なんてかけない。
エンジンの鼓動とロードノイズが何よりのBGMだからだ。
でも今夜だけは、あの曲を聴きたかった。
プレイリストを開くと、目に飛び込んできた「大塚愛 – girly」の文字。
不思議だった。
知多半島で蒼井さんと一緒に海鮮丼を食べた食事処のラジオで偶然流れていたこの曲が、今こうして頭の中で鳴っている。
蒼井さんは覚えていないだろう。
むしろ店内のBGMなんて聞き流していただけかもしれない。
だけど俺にとっては、小さな思い出だった。
再生ボタンを押すと、車内に優しい声が滲むように流れた。
(今あたし、あなたに恋しているの確か)
初めてこの曲を聴いた、あの時はそうだったが、もう俺の恋は終わっていた。
シビックの窓に映る自分の顔が、少しだけ笑っていた。
いつもならアクセルを踏んでいる自分が、ただ座って歌を聴いている。
そんな時間はきっと、もうない。
気合いを入れるためにエンジンをかけ直す。
ステアリングを握る手に、いつもより少しだけ力が入った。
(帰るか……)
アクセルを踏み込み、本線へ合流する。
しかし、胸の奥はまだZと並んでいる気分だった。
名神を東へ走りながら、蒼井さんのZがおそらく高槻ジャンクションで
分かれていったのを想像する。
その先の岡山、さらに広島、そして福岡。
その先には、もう俺の居場所はない。
安八スマートインターの標識が現れたとき、少し迷った。
このまま遠くまで走りたい気持ちが、ブレーキペダルを踏ませるのを拒んだ。
だが、財布の中を考えれば答えは一つだ。
ハンドルを切り、インターへ滑り込む。
料金の表示が、現実へと引き戻す。
シビックを出口の一時停止で止めると、
前のトヨタ ハリアーのテールランプが滲んで見えた。
あの赤い光の中に、蒼井さんのZの青い光を探した。
ラウンドアバウトを超えてから、清流サルスベリ街道を南下する。
ここは昼間でも飛ばす車が多いが、深夜ならなおさらだ。
だが俺はいつものようにアクセルを開けなかった。
隣にZがいないこの道で、無理に飛ばす気にはなれなかった。
後ろから煽ってくる大型トラックのヘッドライトが、バックミラーに刺さる。
だけど何も思わなかった。
むしろ、まだZと走っているような気分だった。
木曽三川公園を左折して、国道155号線経由で国道1号線へと入った。
東へ進路を変えると、名古屋の光がじわりと遠くに滲んで見えた。
家に着くと、シビックのボディに虫の汚れがべったりと貼り付いていた。
普段なら真っ先に洗車道具を引っ張り出していたはずだ。
だがその夜は、玄関の鍵を回すのがやっとだった。
リビングのソファーに倒れ込む。
上着も脱がずに、そのまま目を閉じた。
次の日。
目が覚めたのは昼近くだった。
リビングのテーブルには、小さなセイランブルーのフェアレディZの1/43モデル。
手に取り、光にかざす。
小さいのに、あのZと同じ姿をしている。
(……まだ、隣にいるみたいだな)
いつまでも眺めているわけにもいかないが、1日が過ぎた。
結局俺はシビックを洗わないまま翌日、いつものように弥富の倉庫に出勤した。
フォークリフトを操作しながら、まだあの夜のエンジン音が耳の奥に残っている。
あのZと走れた夜が、俺のリズムをほんの少し戻してくれた。
俺の不調が感染したのか、後輩の畔柳がミスをやらかし、後始末を手伝っていたので、休憩に行くのが遅れた。
休憩室は混んでおり、かろうじて空いていた席に腰掛け、スマホを開き、無意識にInstagramのアイコンをタップした。
画面に映ったのは、ハングル文字が散らばる街中で撮られたあのセイランブルーのZだった。
そういえば、蒼井さんに初めてドライブの誘いの返事を貰った時と同じ椅子に腰掛けていた。
俺は小さく笑った。
ダブルタップで、ほんの少しの気持ちを送った。
(……韓国は、シビックで行けるんかな)
そんなわけない。
でも、もし行けるなら──
俺はまた貯金を始めるだろう。
休憩室を出ると、いつもの自販機が目に入った。
だが今日は立ち止まらない。
まだ、この先がある。
そんな気がした。
【最終章:未来へ走り続ける私】
釜山の港に降り立ったとき、潮の匂いが強くて、名古屋港のあの独特の匂いとは少し違うことに気づいた。
新しい街、新しい空気、新しい生活。
でも、私の隣には変わらないものがある。
フェアレディZ。
釜山のビル群の向こう、まだ雨粒が残る街中に停めていたZのボディが、どこか少し疲れたように、それでも誇らしげに光っていた。
スマホを取り出して、何枚かシャッターを切る。
一枚だけ、釜山の街を背にしたZがとても良く撮れた。
それをInstagramに投稿する。
場所は釜山とタグをつけた。
ほんの数秒後に、倉田くんがこの写真を見つけて、あのくせのある指先で“いいね”をつけるかもしれない──
そんな想像をして、少しだけ笑った。
Zのドアを開けると、異国の風が一気に吹き込んだ。
革張りのステアリングに指をかける。
日本で走っていたときと同じ手触りだ。
でも、フロントガラスに映る景色はもう、日本じゃない。
プッシュスタートを押す。
エンジンが低く咆哮する。
釜山の街に、小さく轟音がこだました。
この国の道路には、日本では滅多にみないヒョンデやキアが多く走る。
けれど私のZは違う。
私だけの青いZ。
右車線を走るのは初めてだが、不思議と不安はなかった。
釜山は運転が荒い街だと聞いていた。
タクシーも商用車も信号無視を当たり前にする、と。
尾張小牧ナンバーや三河ナンバーと張り合ってきた私が世界を相手に通用するのかを試したかった。
だけど、Zで数キロ走ってみてわかった。
張り合いがない。
思っていたよりも、私の想像していた「荒さ」はここにはない。
あの夜、倉田くんと草津まで走ったとき。
新名神のトンネルを抜けたとき。
私の隣には、確かに誰かがいて、エンジンの鼓動で会話していた。
言葉はいらなかった。
Zの助手席に誰かを乗せたいわけじゃない。
でも、あの赤いシビックとだけは、並んで走れる未来が少しだけあってもいいかもしれない。
ハンドルを切って、高速の入口へ向かう。
釜山から仁川までは、距離にして約400キロ。
日本で言えば、名古屋から岡山くらいの距離だろうか。
Zのナビはまだ韓国対応していない。
でも私はナビなんか要らない。
速度制限を超えないように。
そんな自分の中の小さな理性を、いつものようにアクセルペダルで踏みつぶす。
「さあ、Zくん──行こうか。」
釜山の都市を抜けた。
見慣れない橋、見慣れない標識、でも流れる空気は懐かしい。
高速道路を駆けるこの感触だけは、どこにいても変わらない。
ヒョンデのSUVが私の横に並びかけてくる。
アクセルを踏み増すと、あっさりと視界から消えた。
あの速度差の感覚だけで、倉田くんのシビックを思い出す。
もう名古屋で会うことはないかもしれない。
でも、もし彼が韓国まで追いかけて走ってきたら。
そんな非現実を少しだけ期待してみたくなる。
(倉田くんは、最高の走り仲間だった。もし次、会えたなら、その先の関係になってもいいかも…なんてね。)
太陽光が青いZを白く染めた。
まだまだ走れる。
私はZのステアリングを少し強く握り直す。
途中の休憩スポットで、Instagramの通知がポンと鳴った。
片手で画面を確認すると、倉田くんからの「いいね」のアイコンが光っていた。
ふっと息がこぼれる。
言葉にするほどの意味はない。
でも、その一つの小さな印だけで十分だ。
エンジンをかけ、Zのアクセルを踏み込む。
新しい土地の空気を切り裂いて、
青いボディが韓国の道路に溶け込んでいく。
エンジンの音だけが、私の今とこれからを確かに繋いでいた。
走ることでしか繋がれないものがある。
走ることでしか確かめられないものがある。
釜山の街を抜けた私のZは、次の街へ、次の道へ──
未来へ向かって、ただ青い光を放ちながら走り続けていった。
(完)
