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第1話はコチラ

【第一章:再び、彼女を想う】
別れ際、湾岸長島パーキングで、Zの彼女とInstagramを交換してからというもの、家に帰っても、頭の中からあの青いZが離れなかった。
愛知県名古屋市中川区富永の自宅アパート。
古くて狭いワンルームの部屋の隅には工具箱とホイールの箱が積まれている。
シビックの部品が散らばる隣に座り、俺はスマホを手に取っていた。
開いた彼女のInstagramのアカウント名は「Aoi_Z」で、アカウント名通り、青いフェアレディZが写った写真しか投稿されていない。
夜の山道。
港の埠頭。
彼女が撮ったであろう、美しいZの姿。
けれど、そこに写っているZを見ているだけで、あのとき感じた空気が胸の奥に蘇ってくる。
名前も顔もはっきりとは知らなかったはずなのに、気がつけば指が動いていた。
「また一緒に走りませんか?」
DMの送信ボタンを押したあと、心臓がドクンと跳ねた。
返事が来るかどうかなんて分からない。
でも、送らずにはいられなかった。
部屋の時計は、もう深夜1時を回っていた。
明日はまた倉庫の朝勤だというのに、布団に横になっても眠気は来なかった。
【第二章:チャンスと代償】
翌日、朝直の倉庫勤務の休憩時間。スマホを開くと、彼女から返信が来ていた。
「ご飯を奢ってくれるなら、今度の日曜日に一緒に走ってあげてもいいよ」
「……マジか……!」
短い文面なのに、一瞬で胃の奥がぐっと熱くなった。
思わずスマホを落としそうになり、テーブルの縁にカツンとぶつけた。
斜め向かいでコーラを飲んでいた後輩の畔柳が、「倉田先輩、どうしたんすか? 女っすか?」と覗き込んできたが、無視してスマホを握りしめた。
3ヶ月前、峠で置いていかれたあの背中と昨日、湾岸長島パーキングで一緒に飲んだ缶コーヒーが頭を過った。
だが、現実は冷たい。
そっとポケットに手を入れ、財布を開く。
500円玉が1枚。
他は、数十円の小銭だけ。
「……はは。」
思わず声が漏れた。
シビックのガソリンを満タンにしたら、それだけで手持ちは吹っ飛ぶ。
毎月の給料は、ほとんどがガソリン代やカスタム費に消えていく。
コンビニ弁当だって迷うのに、彼女に飯を奢るなんてどう考えても無理だった。
だが――洋三はすぐに顔を上げた。
「手はある。」
仕事終わり、家に戻ると、薄暗い物置の扉を開けた。
段ボールが一つ、奥で埃をかぶっていた。
古い社外車高調。
シビックの前オーナーが使っていたが、納車されてからすぐに新品に履き替えて、もう使わない不要なもの。
「……ずっと放置してたな。」
頭を下げるように、そっと箱を抱え上げた。
汚れた手で箱をトランクに積むとき、何となくシビックのリアに目をやった。
「悪いな、相棒。お前のパーツだけど、今度は違う形で役立ってくれ。」
家を出て向かった先は、アップガレージ名古屋中川。
カウンターで店員が車高調を一つ一つ眺め、何度もメジャーを当て、油染みを確かめる。
洋三は店内をぐるりと歩きながら、ショーケースに並ぶ中古パーツを何気なく眺めた。
どれもこれも、今の自分には手が届かない。
でも、それでも嫌いになれない場所だ。
「買取番号43番でお待ちのお客様、お待たせしました。」
呼ばれて戻ると、査定額を聞いて思わず小さくガッツポーズ。これで彼女に飯を奢れる。
俺の財布は渋沢栄一によって厚みが増した。
たが、アップガレージ名古屋中川を出る時には財布が少し軽くなっていた。
【第三章:知多半島デート】
次の日曜日、午前10時。
待ち合わせの場所は、愛知県武豊町にある武豊緑地の駐車場だった。
海沿いの公園にしては人影が少なく、朝の日差しがアスファルトを白く照り返していた。
シビックを停め、窓を開けると、遠くから潮風の匂いが鼻をかすめた。
俺はシートに背を預けて、何度も自分の服装を見下ろした。
白いTシャツに、履き慣れたジーンズ。
クルマに全てを注ぎ込んだ代償で、クローゼットの中はほとんど作業着ばかりだった。
前日にわざわざアイロンをかけたTシャツの襟元を、無意識に指で伸ばす。
「……まぁ、いいだろ。」
気合を入れすぎて、1時間前に着いてしまった自分を思わず笑った。
シビックのドアを開けて外に出ると、緑地の向こうにちらほらと釣り人の姿が見えた。
少し歩き、海の向こうにある碧南火力発電所の煙突をぼんやりと眺めた。
心臓の奥が、少しずつ早鐘を打っていく。
「……ほんとに、来てくれるよな……。」
スマホでインスタのDMを何度も見返す。
程なくして、遠くから聞こえる勇ましいエキゾースト。Zだ。
慌てて駐車場に戻ると、青のフェアレディZ RZ34が滑り込むように俺のシビックの隣に停まった。
運転席の窓がゆっくり下がる。
「待たせた?」
サングラス越しに覗く目が、柔らかく笑っていた。
「……いや、俺も今来たとこ。」
ベタな嘘だと自分でも分かっている。だけど、そう言うしかなかった。
ドアが開くと、彼女はスニーカーのかかとを鳴らして近づいてきた。
山吹色の薄いジャケットにボーダーのTシャツ。ボトムスはタイトなデニム。
夜に峠で見た姿とはまるで別人のように、どこかラフで、夏の光に馴染んでいた。
「今日はよろしくね。」
差し出された手を、俺は思わずぎこちなく握り返した。
――この人は、 本当にあの夜のZの人なんだ。
改めて思った。
そして軽く挨拶を交わした。彼女の名前は「蒼井エミリ」という。青色のフェアレディZに乗るために付けられたような名前だ。
挨拶を交わし終えると、Zのドアを開けて、蒼井さんが運転席に戻った。
「じゃあ、ついてきて。」
Zのテールランプが小さく光り、前を走り出す。
俺も慌ててシビックのドアを引き、エンジンを始動させた。
ヤマダ電機を右に眺め、AGCの工場とは逆へとハンドルを切る。
交差点を左折すると国道247号線である。
Zのリアが太陽に照らされて青く光る。
「……時計回りだと海がよく見えるから。」
出発前に窓越しに、蒼井さんが小さく笑いながら言っていた。
確かに、海岸線の向こうには、きらきらと光る三河湾がずっと広がっている。
潮風に揺れる夏草と、遠くの釣り船。普段の俺の生活にはない光景だった。
何よりも驚いたのは、蒼井さんの運転するZの走りだった。
夜の峠でのあの攻めの姿はどこにもなく、ゆったりとした加速と、一定の車間距離。
まるで教習所のお手本のような、無駄のない安全運転だった。
昼の蒼井エミリと、夜のZの女。
まるで別人だと思った。
だが、逆に言えば――
そのギャップが、たまらなく魅力的だった。
途中で見た、ぺったん体験という看板が気になった。
【第四章:チッタナポリの光景】
しばらく国道247号線を走っていると、前を走る蒼井さんのZが、ふっと左ウィンカーを点滅させた。
俺は慌ててハンドルを握り直し、ウィンカーを合わせて続く。
道は国道から分かれて、
ヤシの木が並ぶ細い道に入っていった。
真夏の光の下で、ヤシの葉が風に揺れているのが見えた。
「……なんだ、ここ……。」
まるで突然、南国のリゾートに迷い込んだような気分だった。
どこか外国の海沿いの街みたいだ。
高層マンションの元には白い建物とヤシの木と海が広がる。
Zのブレーキランプがゆっくりと赤く光り、蒼井さんのZが、ヤシ並木の脇にそっと滑り込むように停まった。
俺もその後ろにシビックを停め、シフトをニュートラルに入れたまま深呼吸した。
夏の日差しが、サイドミラー越しにチラチラと反射している。
ドアを開けると、潮の匂いがふわりと入り込んできた。
Zのドアが開く音が聞こえた。
蒼井さんがサングラスを外しながら、運転席から軽やかに降り立った。
海風に髪が揺れ、陽射しの中で笑う横顔が、夜の峠の彼女とはまるで別人みたいに見えた。
「ここ、チッタナポリって言って、クルマ好きがよく写真撮るの。」
そう言って俺の方を振り返ると、スマホを取り出しながら軽く顎をしゃくってみせた。
「せっかくだし、撮ろうよ。」
俺は思わず小さく頷いた。
Zの青が陽光を反射して眩しい。その後ろで、赤いFL5のボディがしっかり並んでいる。
(……俺のシビックが、Zの後ろに並んでいる。)
ほんの些細なことなのに、胸の奥がじんわり熱くなる。
蒼井さんがスマホを構えて、並んだ2台のクルマを真剣な表情で撮影する。
シャッターの音が、小さく海風に混じって聞こえた。
(……やっぱ、この人は“ただ速い”だけじゃない。)
走るだけじゃなくて、こうして一緒に景色を切り取ってくれる。
「ほら、次は倉田くんの番。」
蒼井さんが撮影するように促してきた。
俺はスマホのカメラを構えながら、海の向こうに浮かぶ離島を眺める蒼井さんを見た。
Zと同じくらい、いやそれ以上に、その横顔が夏の光の中で映えていた。
スマホの中に映る俺のシビックと蒼井さんのZ。
シャッターを押す指先に、なんだか小さな誇りと嬉しさが混じっていた。
「……クルマ好きで良かった。」
思わず心の中で呟いて、もう一枚、もう一枚とシャッターを切った。
【第五章:約束のご飯】
チッタナポリのヤシ並木を抜け、再び国道247号へ戻ると、古い街並みを潮風が駆け抜けていった。
先導する蒼井さんのZのテールランプが、太陽の光を受けて赤く滲んでいる。
窓を少し開けると、潮の匂いがほんのり車内に入り込む。
「……ここまで来て飯を奢れないとか、ありえねぇからな……。」
ハンドルを握り直しながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
車高調を売って得た臨時収入は、残り僅か。
それでもいい。それでも、今日だけは。
羽豆岬の交差点を越え、海岸線沿いにぽつんと佇む小さな海鮮食事処が見えてきた。
駐車場にZが静かに滑り込む。
俺も続いてシビックを停めると、ハンドルの奥に置いた財布を何度も撫でた。
俺は思わず「……頼むから、そんな高いもん食わないでくれ……。」心の中で叫んだ。
真っ赤な助手席のシートに置いたスマホの画面には、信号待ちに撮ったZのリアの写真が残っている。
気合いを入れ直してドアを開けると、潮の匂いがさらに濃くなった。
「ここ、意外と穴場なんだ。」
蒼井さんが、軽い足取りで暖簾をくぐる。
木の引き戸を開けると、中には観光客らしき家族連れが数組。
漁港帰りの漁師さんらしきおじさんが小さく一礼して席を空けてくれた。
二人で向かい合って座るテーブル席。
メニューを開くと、並ぶ文字のほとんどに“海鮮”の二文字が躍っている。
(丼なら……丼ならギリ……。)
蒼井さんが迷わず指差したのは、メニューの真ん中に載った“特上海鮮丼”。
「せっかくだし、これにしよ。」
「……お、おう。」
心の中で何かが崩れ落ちた音がした。
だが、もう止める選択肢はなかった。
厨房から漂う魚の香りに混じって、エンジンオイルの残り香が鼻の奥にかすかに残った。
注文して数分後、目の前に置かれた丼は、俺が想像していたよりもはるかに豪華だった。
「……知多の海、舐めてたわ……。」
分厚く切られたマグロに、甘エビ、ハマチ、ウニまで載っている。仕上げに師崎港で水揚げされた、しらすが散りばめられている。
蒼井さんが箸を割って、笑いながら頬張る。
「美味しいね。」
その一言で、財布の中身の残高が頭から消えた。
丼を一口運ぶと、潮の香りと酢飯の温度が口に広がる。
(……いい。これでいい。)
食べ終わる頃には、二人の前の丼はきれいに空になっていた。
会計を済ませるとき、レジに並んだ観光客の親子連れが、ちらりと蒼井さんと俺を交互に見た。
小さな誇りみたいなものが、胸の奥で小さく鳴った。
俺の財布に住んでいた渋沢栄一が羽ばたいて行った。
でも――
「ありがとう、美味しかった。」
店を出たとき、
蒼井さんが少しだけ振り向いて、小さく笑った。
それだけで、俺の心は満たされた。
夏のアツい奇跡のような潮風がこの胸に吹いて、Zの青いボディに反射した光が目に眩しかった。
【第六章:モールの午後】
海鮮丼を食べ終え、駐車場へ戻る途中で蒼井さんがふと立ち止まった。
「このあと、ちょっと付き合ってくれる?」
問いかけというより、もう決定事項みたいな言い方だった。
「……ああ、いいけど……どこ行くんだ?」
蒼井さんは少しだけ笑って、Zのスマートキーを指先でくるりと回した。
「イオンモール常滑。ちょっとだけ。」
俺の頭の中には、大型ショッピングモールの賑わいと、財布の中身の残高が同時に浮かんだ。
(もう残ってないのに……。)
でも、「NO」とは言えなかった。
再びエンジンをかけると、Zのテールランプが先に光った。
潮風の残る国道247号線をを北へ。今度は伊勢湾の青い光が左手にきらめいている。
Zの背中を追いながら、さっきまでの海鮮丼の味が、まだ口の奥に残っていた。
知多半島は海だけではなかった。山の景色も美しく、ブルーベリーや知多牛といった特産品があるらしい。
イオンモール常滑の看板が遠くに見えてくると、日曜日の午後らしく駐車場はどこも混んでいた。
Zが空きを見つけると、俺のシビックの分もスペースを確保してくれた。
「ここでいい?」
助手席の窓越しに笑うその顔が、峠でZを操るときの鋭さとはまるで違った。
クルマから降りた蒼井さんは、海沿いの風に髪を遊ばせながら、肩にかけた小さなトートを軽く掛け直した。
ボーダーのTシャツに細身のデニムパンツ、肩までのミディアムボブが光を受けて少し青みを帯びる。
買い物に来た、ただそれだけの姿なのに、Zのコックピットにいた彼女と重なると不思議なくらいギャップがあった。
モールの入口へ歩き出すとき、一歩後ろを歩く俺は、無意識に距離を取ってしまっていた。
「そんなに離れなくていいじゃん。」
振り返って笑う顔に、思わず息が詰まった。
人混みの中に混ざって歩くのは慣れていない。いつもは倉庫とクルマだけの生活。
だけど、この時だけは――
人混みも悪くないと思えた。
雑貨屋のウィンドウに映る二人の姿。
俺は鏡越しに、Zと並んでいたときと同じように、隣にいる自分を少しだけ誇らしく思った。
蒼井さんがふと足を止め、小物を手に取って覗き込む。
その横顔が、湾岸長島パーキングで見た夜のZと同じくらい静かに光っていた。
気がつけば、もっと一緒にいたいと思っていた。
(……また会いたいな。)
そう思った瞬間、背中を押されたように俺は、蒼井エミリという存在に、さらに深く踏み込んでしまった気がした。

次回、小説『Zの蒼、夜を駆ける』第5話「伝説のブラックバード」はコチラ
