【序章】
愛知県名古屋市千種区・覚王山。
時は土曜日の午前1時。
街は昼間よりもはるかに輪郭を際立たせている。
通りの街灯は遠くから見れば暖かく滲むが、足元を照らす光はどこか頼りない。
夜の冷たい風が坂道を下り、低い家並みの瓦を撫でていく。
マンションのエントランスを抜けて外気に触れた瞬間、私は小さく息を吐く。
吐息が白く滲むほど、この街の夜は澄んでいる。
見上げれば、覚王山の高台から名古屋の街が遠くに眠っているのがわかる。
点々と瞬く街の光は宝石のように煌めいているのに、この場所は驚くほど静かだ。
私の名前は蒼井エミリ。年齢は28歳。
身長は157センチ。
髪はミディアムボブのダークネイビーで、毛先だけ、ほんのわずかに青みがかかっている。
愛車の青に合わせて染めた色だ。
瞳は深いスレートグレー。
街灯の下に立つと、黒にも青にも見えるとよく言われる。
走る時の服装はいつもシンプルで、モノトーンばかりだ。
今日も白いシャツに黒のハイウエストパンツ、耳元で小さく光るのはネイビーブルーのピアス。
この街、覚王山の築浅のデザイナーズマンションで一人暮らしをしている。
近所のジャズ喫茶でコーヒーを飲んだり、こだわりのベーカリーでパンを買ったりするのが、ささやかな日常だ。
昼間は街に馴染む私。
けれど夜になれば、誰にも言えない本当の自分に戻る。
──私にとって大切なのは、誰といるかじゃなくて、何を走らせるかだ。
自販機の前で立ち止まり、交通系ICのマナカで決済し缶コーヒーを買う。
毎週のように缶コーヒーを買うせいで、この自販機の配置は暗闇でもわかる。
タリーズのブラック。
冷たいボタンを押すと、決済音が静寂を小さく揺らす。
缶を手に取ると、そのわずかな熱が指先に戻ってくる。
蓋を開けると、ほろ苦い香りが夜気に溶けていった。
「……行こっか」
誰にでもなく小さくつぶやく。
ガレージの奥、蛍光灯の下に私の“相棒”が待っている。
NISSAN フェアレディZ(RZ34)。
セイランブルーのボディは、光を受ける角度で海の底のような青にも、夜の闇を呑み込む黒にも見える。
私はこのクルマを「Zくん」と呼んでいる。
私の、もうひとつの居場所だ。
20歳で免許を取ったとき、最初に買ったのは水色のトヨタ・アクアだった。
燃費が良ければそれでいいと、その頃の私は本気で思っていた。
けれど、2022年の6月。
通りがかった日産のディーラーで、ショールームの一番目立つ位置に展示されていた青いフェアレディZを見つけた瞬間、全てが変わった。
そのまま契約に至り「納車まで2,3年は要します。」と担当営業の板野さんがいう。待ちきれなかった私は認定中古車のブルーのZ33まで契約してアクアから乗り換えた。
その間にAT限定も解除して、マニュアルの楽しさを知った。
2024年5月に私の元にやってきたRZ34のZくんは、純正のフォルムをできるだけ崩さず、だけど中身だけはきちんと走るように調整してある。
ブリッドのシート、少しだけ強化したブレーキ、抜けの良い吸排気、ECUをちょっとだけ弄ったVR30DDTTエンジン。
マンションのシャッターが私を迎えるように開いていく。
近づくほどに、胸の奥が静かに鳴る。
ドアを開けて、硬質なフルバケに身体を沈める。
背中がピタリと収まった瞬間、私は私に戻れる。
ステアリングを握り、左足でクラッチを踏む感触を確かめる。
缶コーヒーをドアポケットに置き、指先がプッシュスタートに触れる。
「こんばんは、Zくん」
私の声に応えるように、3ℓV6ツインターボが低く咆哮する。
ガレージの壁を伝って、デジタルメーターの青白い光が私の頬を照らす。
この音、この匂い、この振動。
これがある限り、私は誰のものでもない。
「今日も、好きに走るだけ。」
小さく言い切る。
それだけで、すべてが整う。
シャッターの向こうに広がるのは、
まだ誰も踏み入れていない深い夜。
Zのヘッドライトが、青白い刃のようにその闇を切り裂いた。
私は息を吸い込み、小さく笑った。
【第一章:都市を離れて】
街灯に照らされたボンネットの青は、夜の闇を切り裂く刃のように鈍く光っている。
私のZくんが吐き出す低い咆哮は、覚王山の静けさを溶かすように、遠くへと溶けていく。
アクセルにほんのわずかに力を込めると、エンジンは小さく応えた。
ガレージを出たZくんは、まだ眠りから完全に目を覚ましていない獣のように、滑らかにマンションの敷地を抜け出していく。
住宅街の坂を下りながら、私は窓を少しだけ開けた。
昼間に太陽光で熱を帯びたアスファルトは、深夜にはどこか湿り気を帯びて、静かに街を冷ましていた。
ハイビームは使わない。
この街の夜を、余計に掻き乱したくなかった。
覚王山から若宮大通までは、わずか数分。
深夜の通りには、クルマの姿はまばらだ。
代わりに、深夜のタクシーがゆっくりと走り、どこかのビルの一階、コンビニの前で酔い覚ましの客がカップラーメンを手に立ち尽くしていた。
信号待ちの間、私はルームミラーを覗く。
青い光を帯びたメーターの奥に映る自分の瞳は、さっきより少しだけ鋭くなっている気がした。
ギアを一段下げる。
アクセルを踏むと、Zくんのタービンが吸い込む空気の音が、街の静寂に溶ける。
私はまだ完全にアクセルを踏み切らない。
この街の中では、まだ「私」でいる。
本当の「私」に戻るのは、もっと街の灯りが遠くなってからだ。
若宮大通へ抜けると、遠くに見えていた栄のネオンがぐんと近づいてくる。
名古屋で最も眠らない街。
でもこの時間、煌めいているのは残り香だけだ。
街路樹の向こうに、深夜まで開いているバーの青い看板が見えた。
昔、会社の同僚に連れてこられたことがある。
誰かとお酒を飲んでも、私の中の何かは満たされなかった。
ハンドルを少し切り、そのバーの看板がルームミラーの奥に沈んでいくのを見送る。
吹上インターの案内標識が近づいてくる。
あのループを抜ければ、街の息遣いは一気に遠くなる。
信号が青に変わるタイミングで、少しだけ右足に力を込めた。
Zくんが低く吠える。
ループを駆け上がる。
高架の下をすり抜けていく街灯が、フロントボンネットを流れる。
ギアを2速へ。
アクセルを一気に踏み込む。
タービンが吸い込む音、足元から響く路面のざらつき。
それが私を、街から切り離していく。
名古屋高速2号東山線へ合流する。
街の灯りが、今度は私の背中へと遠ざかる。
クルマはほとんどいない。
路面を叩くタイヤの音だけが、夜にひっそりと響く。
新洲崎ジャンクションの合流を迎える。
黄金出口ではなく、名古屋高速5号万場線へと進路を取る。
遠くに浮かぶ街の灯りが、どんどん背後へと沈んでいく。
遠くに名古屋西料金所の案内標識が見えた。料金所を通過し東名阪道に入ると、私の心は不思議なくらい軽くなる。
街の輪郭が遠ざかり、代わりに私の輪郭が鮮明になる。
──走っているときだけが、本当の私。
メーターの針が滑らかに上がり、Zくんの咆哮が静寂に溶けていく。
三重県に入り、大山田パーキングに寄る。
私は思い出していた。
あの検挙のことを。
2019年の年末、三重県津市にある取引先へ向かっていたあの時。
桑名インターを越えた先のストレートで、ガンメタのマークXの覆面に捕まった。
忘れもしないナンバーは94-34。
──串刺しにされた。
あのときの警告は、今も私の背中に刺さったままだ。
でも、もう同じ過ちは繰り返さない。
このZくんとなら。
どんな相手が来ても、私は逃げない。
再び、東名阪に合流し、桑名インター先の員弁川を横切るストレートを通過する。
やがて四日市ジャンクションが近づく。
新名神へ乗り換えれば、あとは峠へと向かうだけだ。
左手でギアノブを握り直し、ハンドルを少しだけ切る。
ヘッドライトの先に伸びる真っ直ぐな闇は、私だけのものだ。
「さあ、ここからが本番。」
口元に小さく笑みを刻む。
Zくんが低く鳴いた。
第二章:峠道の影】
菰野インターを降りた瞬間、名古屋の街の残響は完全に背後へと消えた。
フロントガラス越しに伸びる道は、街灯がところどころで切れ落ち、闇がじわじわとこちらを飲み込もうとしている。
料金所通過し、右折した先の道の突き当たりにある峠の入り口には、周辺観光案内が一つだけある。
国道477号線──
ここは「鈴鹿スカイライン」と呼ばれる峠道。
真夜中にここを走る者は、大抵が私のような理由を抱えている。
仕事のストレスを吹き飛ばす者、誰かに追いつきたい者、そして誰にも触れられないまま走りたい者。
私はそのどれでもあって、どれでもない。
ギアを一段落とし、アクセルを深く踏む。
エンジンの咆哮が夜の山肌を叩いて跳ね返る。
右足に伝わるZくんの重さが、冷たいアスファルトをしっかりと噛み締めていた。
闇が深い。
標高が少しずつ上がるたび、夜気はますます澄んでいく。
ハイビームに切り替える。
その瞬間、路面のヒビ割れとオレンジのラインがくっきりと浮かび上がり、山道の輪郭を私に教えてくれる。
ステアリングを切るたびに、ブリッドのフルバケットが私の背中を固定する。
身体がZくんの骨格に吸い付く感覚。
ライン取り。
ブレーキポイント。
左足のクラッチ、右足のブレーキとアクセル。
指先の感触に、無駄はない。
ここからは誰もいない。
そう思っていた。
昨日、冬季通行止めが解除された区間に入る。
ルームミラーの奥に、鋭く切り裂くような白い光が滲んだ。
一瞬だけブレーキを踏んで速度を落とす。
追い越しを許すつもりはない。
ただ、その影の正体を確かめるために。
近づいてくる光の奥から、赤い影が浮かび上がる。
ホンダ シビックタイプR。
最新型のFL5型。
フレームレッド。
珍しい色だ。
しかも、この時間に、ここで?
距離はすぐに詰まった。
Zくんのテールランプに、赤いシビックの目がピタリと張り付く。
わずかに煽り気味。
だが、相手のアクセルワークには、下手な挑発のような粗さはなかった。
探っている。
私の走りを、試している。
「……そう来る?」
口の中でつぶやく。
アクセルを踏み込む。
タービンの音が小さく吠える。
ギアを一段上げる。
カーブに差し掛かる。
わずかにブレーキを残して侵入し、
頂点でスッとアクセルを戻す。
Zくんが地面を切り裂く音が夜に響く。
後ろの赤い影は、離れない。
だが、追い詰めるでもなく、張り付きすぎるでもない。
ただ私のリズムを盗もうとしている。
「いいわよ……ついて来られるなら」
ヘッドライトに照らされるコーナーの先に、次の闇が待っている。
アクセルを戻すと、合皮巻きのシフトノブが冷たい夜気で少しだけ冷たく感じる。
ラインを外さない。
ブレーキポイントを乱さない。
峠は機械の暴力ではなく、ただのパワーだけでは語れない。
ここでは、呼吸のような走りがすべてだ。
赤いシビックのヘッドライトが、ミラーの奥で波打つ。
あのドライバーが何者なのか、私にはわからない。
でも、今はそれでいい。
また一つカーブを抜けると、闇がふっと切れる。
小さな待避所が左手に現れ、私は一瞬だけアクセルを抜いた。
ミラーの奥で、赤い影がわずかに距離を取った。
ここまでか。
それとも、ここからか。
私はステアリングを握る手に力を込め、
深く息を吐いた。
「夜はまだ、終わらない」
ヘッドライトの先に伸びる峠道が、私とZくんをさらに奥へと誘う。
闇は濃く、タイヤの摩擦音だけが静かに夜気を裂いていく。
第三章:赤と青の交錯】
山影の中で、峠道は緩やかに右へ、左へと身をくねらせている。
オレンジの路面ラインがヘッドライトに浮かんでは闇に溶け、その先に新しいカーブが待っている。
Zくんのステアリングを握る左手が、コーナーごとに僅かに締まる。
右足の動きは迷いがない。
アクセルとブレーキの踏みかえが、まるで深い呼吸のように自然だった。
ルームミラーの奥。
赤いヘッドライトがまだそこにいる。
フレームレッドのシビック。
FL5型のあの影は、
簡単には離れない。
私とZくんが吐き出す排気音が、山肌を叩いては跳ね返り、
遠くで赤い影の低い咆哮がそれに応える。
「……しぶといわね」
小さく笑みが漏れる。
挑発ではない。
どこか懐かしい感触だった。
10代の頃。
まだクルマの免許もない頃。
私は何をしていた?
図書館でひとり、パソコンを覗き、プログラムコードを書いて、誰にも言えない自分を隠していた。
今、私の指先はステアリングを握り、シフトノブを滑らせ、ペダルを蹴り返す。
孤独なはずの夜に、私の背後に確かに誰かがいる。
カーブの先で、路面がわずかに荒れている。
私はブレーキを浅く残し、内側の縁石をかすめるようにラインを取る。
リアがわずかに滑った。
だが恐怖はない。
Zくんの挙動を、私は読み切っている。
赤い影も同じラインをなぞろうとする。
ヘッドライトの距離が一瞬、伸びる。
タイヤが鳴いた。
あのドライバーは私の走りを見ている。
模倣しようとしている。
だが、すべてを真似はできない。
「……ごめんね。ここからは置いてく」
ギアを一段下げ、回転数を合わせてアクセルを踏み込む。
Zくんが深く吠えた。
タービンが冷たい空気を一気に吸い込む。
次のコーナーを抜けた瞬間、ミラーの奥の赤い光が遠ざかった。
峠の影に赤が溶ける。
私は速度を少しだけ落とし、ミラーを覗き込む。
戻ってこない。
「終わり、ね」
それだけのことなのに、どこか胸の奥に熱が灯った。
私が走っているのは、誰かと競うためじゃない。
けれど、名前も知らない誰かと一瞬だけ言葉もなく交わす会話。
ライン、ブレーキ、アクセル。
それだけで通じるものがある。
「……楽しかった」
小さく、Zくんに呟く。
夜の峠は静かだ。
風が通り抜け、木々の枝が軋む音だけが、私とZくんを見送っている。
アクセルを緩める。
冷たい空気がわずかに車内へ入り込む。
名前も知らない赤い影。
あのシビックのドライバーが、どんな顔をしていたのかもわからない。
けれど、ミラー越しに見えた目の光だけが、不思議と頭に残った。
Zくんのハンドルを握り直す。
「……さあ、休憩にしよっか」
アクセルを少しだけ戻し、夜の山道をもうひとつ抜ける。
リアミラーには、もう誰もいなかった。
【第四章:武平峠】
峠道を抜けた先、視界がわずかに開ける。
街の残響も、赤い影の咆哮も、すべて背後に置いてきた。
冷たい夜気の中で、Zくんのエンジンだけが小さく脈打っている。
標高800メートル。
鈴鹿山脈の麓にある武平峠の駐車場は、この時間、当然誰もいない。
街灯はほとんどない。
見上げれば満天の星が降りてくるようで、遠くに広がる伊勢平野の灯りが、夜空をかすかに滲ませている。
Zくんを駐車場に停めた。
ギアを抜き、エンジンを切ると、車内の静寂がいっそう深くなる。
ハンドルから手を離すと、少しだけ指先が熱を帯びているのがわかった。
ブリッドのシートから腰を上げると、背中が少し軋む。
今夜は街を出てくるときよりも、ずっと自分の骨格を感じる。
ドアを開けると、山の空気が一気に入り込む。
深く冷たい。
肺の奥まで澄んでいく。
ルームランプの小さな灯りが、黒い車内に薄く漏れる。
ドアポケットに置いてきた自販機の缶コーヒーを取り出した。
走り始める前に一口だけ飲んだきり、
ほとんど残っていた。
ボンネットの端に腰を預ける。
Zくんのエンジンの余熱が、鉄板越しにじわりと伝わってくる。
夜気の冷たさと、ボンネットの温かさが、指先で交わる。
蓋を開けて、ひと口だけコーヒーを飲む。
冷えた缶のはずなのに、走り終わった後の体には、妙に柔らかい苦味が染みる。
「……また一人、ね」
自分でもわかるくらい、声はかすかに震えていた。
走っている間は、何も考えなくて済む。
誰のことも思い出さなくて済む。
Zくんがいてくれれば、それだけで十分だった。
けれど、ルームミラーの奥に残った
赤い影の残像が、まだ胸の奥に小さく灯っている。
「挑んできたのか、ただ走りたかっただけなのか……」
誰に問いかけるでもなく、私は空を見上げる。
星が瞬いている。
街では見えないはずの小さな光が、山の暗さの中でひとつずつ形を持つ。
覚王山の自宅マンションから眺める夜景も好きだ。
だけど、街の光は遠すぎて、いつも私を置いていく。
ここでは違う。
風の音だけが耳に届き、あとはZくんの金属が冷めていく小さな音がするだけ。
「誰もいないのが、いいの」
自分にそう言い聞かせるように、コーヒー缶を握りしめる。
だが、そのコーヒー缶を置いた瞬間、私はもう一度、Zくんのボンネットを軽く叩いた。
「でも……また会っても、悪くないかもね」
何の約束もない。
名前も知らない。
けれど、走りの中でだけ交わったあの影は、私の夜に小さな余白を残していった。
冷めたコーヒーの苦味が、まだ舌の奥に残っている。
「……帰ろうか、Zくん」
そう言って、私はゆっくりと腰を上げた。
夜はまだ終わらない。
けれど、名古屋へ帰る道は、Zくんが知っている。
星空の下、青いZが再び目を覚ます。
静寂の中に、小さな咆哮が響いた。

【エピローグ】
その頃、峠の途中。フレームレッドのシビックタイプRが、山の陰にひっそりと停まっていた。
倉田洋三、22歳。名古屋市中川区富永在住。
普段は弥富市内にあるの倉庫で働き、夜は愛車にすべてを捧げる。
「Z……あれ、女だったのか?」
ミラー越しに見た横顔。それだけで、胸がざわついた。
「また、会えるかな」
赤いシビックが、静かに夜へ消えていった。